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<ぐうたらな突発的対談について>

2003年4月に「ぐうたら掲示板」で突発的にはじまったやりとりを再録しました。もともとは山田正紀『神曲法廷』評から派生したスレッドでしたが、後期クイーン的問題の解説を経て、話題はドラマ『TRICK』とその演出家、堤幸彦の話題へとシフトしてきています。その意味では、「『TRICK』と後期クイーン的問題」というタイトルが、どこまで当てはまっているのかは自信がありません。今後も話題は別な方向へ移動する可能性があるので、このタイトルはあくまで暫定的なものとして認識しておいて頂ければと思います。ちなみにこれまでのところ(4月13日現在)、論点とされているのは次の大まかにいって3つということになります。(1)後期クイーン的問題の検証、(2)『TRICK』サイトレイラー編における犯人の側からの検証、(3)堤幸彦の演出手法について。この3つの話題が今後どのように展開していくのか、僕個人としても非常に興味をもっています。できたら、Ashさんと僕以外の方からも意見がいただけたらうれしいですね。

最後になりましたが、僕の毎度の長い話につきあってくださり(いやほんとに)、さらに発言の再録を快諾してくださったAshさんに感謝します。どうもありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

単発記事
ぐうたらな突発的対談-『TRICK』と後期クイーン的問題

▼2003年4月4日 もろやん No.00
こちらも久々の更新です。
読書日記に山田正紀『神曲法廷』の書評をアップしました。
2年数ヶ月ぶりに再読したのですが、やはり面白いですね。
前回の書評と合わせて読んでいただければさらに楽しんでもらえると思います。

▼2003年4月5日 Ashさん No.01
こんばんわ。書評を拝見しましたが、原作未読なこともあり、後期クイーン的命題が今一つつかめずにいます。もし宜しければ先日の話題にもありましたTRICKの例を載せていただけないでしょうか。

▼2003年4月5日 もろやん No.02
了解しました。
長くなりそうなので、時間があるときに読んでくださいね。

後期クイーン的問題は、法月綸太郎の論文「初期クイーン論」(『現代思想』1995年2月号)で指摘された問題の、まあ、俗称です。この理論の前提は、本格ミステリ作品が〈閉じた形式体系〉である、というところにあります。

本格ミステリ作品では、作中の謎は作中の情報で解かれなければなりませんよね。そこに必要な情報が提示されていなかったり、解決できない矛盾があったとしたら探偵は真実にたどり着けなくなってしまいます。逆にいえば、探偵が論理的な推理で真実にたどり着くための必要十分な手がかりが、ひとつの本格ミステリ作品には完備されていないといけないわけです。そういう意味で、本格ミステリ作品は、その作品のなかだけで完結する〈閉じた形式体系〉なんですね。これが「初期クイーン論」の前提です。

しかし、本格ミステリ作品が〈閉じた形式体系〉だとすると、困った定理があるんですよ。それが〈閉じた形式体系〉に起こる問題を指摘した「ゲーデルの不完全性定理」というものです。これは「(1)どんな形式体系も、無矛盾である限りそのなかに決定不可能な命題を残さざるをえない、(2)どんな形式体系も、自己の無矛盾性をその内部で証明することはできない」という数学の定理です。

このゲーデルの問題はすべての〈閉じた形式体系〉に等しく生じる問題なんですが、法月はこれを本格ミステリ作品にも当てはまる、といいます。本格ミステリも〈閉じた形式体系〉ですからね。ゲーデルの定理は簡単にいえば「完全な形式体系はありえない」というものなんですが、法月はそれを援用して、「完全な本格ミステリ作品はありえない」というわけです。つまり、「(1)どんな本格ミステリ作品も無矛盾である限り決定不可能な命題を残さざるをえない、(2)どんな本格ミステリ作品も自己の無矛盾性(完全性)をその内部で証明することはできない」というんです。

これは本格ミステリにとってみればとんでもなく壊滅的な結論です。作品の中の情報だけでは、推理が正しいかどうかわからなくなっちゃうんですから。作中で推理をする人物といえば探偵ですが、作品のなかには、探偵にとって矛盾と思われる要素が必ずひとつ以上含まれることになります。つまり、探偵はどんなに論理的に推理をしても、唯一絶対の真実にたどり着くことができない。これが法月が指摘した「後期クイーン的問題」の概念的レベルでの説明です。

じゃあ、具体的には、本格ミステリ作品のどんなところで「後期クイーン的問題」が起こっているかというと、典型的な例としてあげられるのが、僕が書評で何度も触れている〈偽の手がかり〉にまつわる問題なんです。『TRICK』のサイトレイラー編の例でいうと、あの回では、実は深見が〈偽の手がかり〉をばらまいて探偵である上田や奈緒子を操っていた、という真実が提示されましたよね。しかし、そのような〈偽の手がかり〉による操りが使われてしまうと、探偵は論理的には真実にたどり着けなくなっちゃうはずなのです。

犯人が計画的に犯行に臨んでいる以上、どんなにあからさまな手がかりがあったとしても、それを信じることはできません。それは実は、別の真実に探偵を向かわせる、偽の手がかりであるかもしれないからです。この手がかりの真偽の決定不可能状態は、論理的に考えると、どこまでいっても途切れることがありません。サイトレイラー編では、たまたま深見が自白して、奈緒子や上田の推理が当たっていた、という結末になっていましたが、しかし、ここで冷静に考えると、その自白自体が、実は別の真相を隠蔽するための偽の手がかりだった、という可能性は、論理的には消すことができないんです。探偵はここで、どんなに推理をしても唯一絶対の真相にたどり着けないという問題を抱えてしまうわけです。

もしかしたらここで反論があるかもしれません。「サイトレイラー編では、ドラマを観る限り、あれ以外の真相を描くことはできないじゃないか、さらに上位にある真相を示唆する手がかりなんか画面に出てこなかったんじゃないか」と。でも、まさにそこが問題なんですね。というのは、「画面にはあの真相に至る手がかりしか出てこなかった」という情報は、『TRICK』というドラマの作品世界〈外〉にいる視聴者だから手に入れられる情報でしかないからです。飽くまでも作品世界〈内〉の登場人物である『TRICK』の探偵たちにとっては、どの場面が放送されて、どの場面が放送されなかったかなんてことは、知り得ないはずなんです。だから、彼らは「画面にはこの手がかりが出てこなかった」という情報を元にして推理することはできない。したがって、その推理が最終的な真実を言い当てていたかどうかも判断できない。もっと強い言葉でいえば、彼らの推理は、最終的には論理に頼っているわけではなくて、当て推量でしかないんです。これが『TRICK』における「後期クイーン的問題」の様相ですね。

90年代の本格ミステリでは、この「後期クイーン的問題」への対処法が、作品のなかでいろいろと考案されてきました。そのうちのひとつが昨日書評で触れた山田正紀『神曲法廷』だったというわけです。これ以降の説明は、書評を読んでいただくということで。

やはり長くなってしまいました。サイトレイラー編、いま見返せる状態ではないので、もしかしたら細部で違っている部分があるかもしれません(汗) でも、原理的にはやはり深見の自白が問題になると思います。そんな風に深読みせんでも、といわれるとそれまでなんですけどね(笑) ということで、説明、こんな感じでどうでしょうか。わからないところがあったら遠慮なく質問をしてくださいね。

▼2003年4月6日 Ashさん No.03
なるほど、ご説明頂き有難うございます。
ゲーデルの定理と後期クイーン問題の関係が分かってきました。
ただ、サイトレイラー編との関係についてはもう少し細かい部分での検証が必要ではないかと思います。
例えば、

1.深見はどのように
2.なぜ偽の手がかりを残し
3.結果として探偵である奈緒子や上田に与えた影響はどうなっており
4.それが後期クイーン問題に該当するかどうか

といったレベルです。
この場合、深見の行動自体が後期クイーン問題に該当しているかどうかの検証となるため、深見側から問題を見ていくほうがいいと思います。ビデオレンタルしてきましたのでどうぞ。

人物:
サイ・トレイラー   深見 博昭
エッセイスト     小早川 辰巳
証券会社サラリーマン 岡本 宏
岡本の婚約者     小早川 恭子

目的:実の娘である小早川恭子を死に至らしめた快楽殺人鬼・小早川辰巳を自分の手で死体を掘り起こさせ、法的に抹殺すること。
方法:小早川に「ゾ~ン」の存在を信じ込ませることで、心理的破滅に追い込む。
そのため、金で岡本宏を使い、小早川を継続監視させ、快楽殺人の度に死体の場所を押さえておき、サイ・トレイリングとゾーンの信憑性を高める。奈緒子たちを利用したのは一連の事件を追わせることで、ゾ~ンの存在を信じさせるため。
とにかく、ゾ~ンの存在を小早川に信じ込ませることができるかどうかに計画の成否がかかっている。

検証:
1.時系列上における要素の抽出
---vol.1---
a.人面タクシーの出現と都市伝説の描写。
b.岡本から上田に深見の能力の真偽について調査依頼が行われる。
b-1.小早川恭子は3年前岡本の目の前で人面タクシーに乗って失踪した。
b-2.深見の能力が正しければ小早川恭子のサイ・トレイリングを依頼することになる。
b-3.3年前から人面タクシーに乗ったまま失踪した女性が相次ぐ事件が発生している。
c.深見と上田たちが接触する。
c-1.深見による財布のサイ・トレイリングが行われる。
d.奈緒子によるカード消失現象が行われる。深見にトリックが露見する。
e.TV上で奈緒子によるカード消失現象が行われる。
f.深見が失踪者のサイ・トレイリングを受諾する。
f-1.深見は失踪者4人を全て見つけ出す代わりに報酬を要求する。
f-2.小早川辰巳が報酬を立てかえると申し出る。
f-3.小早川恭子とその人間関係が明らかにされる。
小早川 辰巳(著名なエッセイスト)
小早川 リツコ(辰巳の妹・恭子失踪後死亡)
小早川 恭子(リツコの娘・未婚の子供)
恭子に連なる肉親関係は辰巳一人となっている。
g.サイ・トレイリングにより小早川恭子以外の被害者の遺体が発見される。
h.失踪事件時の深見のアリバイが明らかにされる。
i.岡本が人面タクシーに乗った小早川恭子と遭遇する。
k.石原が深見の自宅で深見の声を聞く。(人面タクシー出現時の深見のアリバイ)
l.上田、小早川たちが人面タクシーに遭遇する。

---vol.2---
m.奈緒子により人面タクシーのトリックが解明される。
n.人面タクシー出現時における深見のアリバイが明らかにされる。
o.奈緒子により財布のサイ・トレイリングのトリックが解明される。
p.小早川恭子失踪時のアリバイの検証
p-1.深見のアリバイは成立する。
p-2.小早川のアリバイは人面タクシー出現時の深見のそれと酷似している。
p-3.b-1より岡本のアリバイは成立しない。
q.岡本が警察に事情聴取を受ける。
r.岡本と小早川の諍い。
r-1.小早川と岡本の金銭事情が明らかにされる。
s.小早川のもとに恭子からのメッセージが届く。
t.岡本がゾ~ンに引きこまれ、ホテルから転落死する。
u.深見の提案により全員が深見宅で過ごす。
u-1.深見により快楽殺人にとりつかれる心理が明らかにされる。
v.奈緒子が岡本死亡のトリックを解明する。
w.深見がゾ~ンに引きこまれ、変死する。
x.小早川が恭子の遺体を掘り出す。
x-1.小早川の逮捕。
y.奈緒子により全事件の解明が行われる。
z.深見の独白。
z-1.深見の逮捕。

長くなりましたので今回はこのへんで。

▼2003年4月6日 Ashさん No.04
こんばんわ。早速ですが昨日の続きを。

後期クイーン問題の概念レベルの命題
(1)「どんな本格ミステリ作品も無矛盾である限り決定不可能な命題を残さざるをえない」
(2)「どんな本格ミステリ作品も自己の無矛盾性(完全性)をその内部で証明することはできない」
(3)「作品の中の情報では矛盾が解決しないため、
探偵が如何に論理的に推理をしても唯一絶対の真実にたどり着くことができない」
(4)「故に完全な本格ミステリ作品はありえない」

TRICK サイ・トレイラー編
もろやんさんのご指摘を整理すると次のような点が挙げられるかと思います。

【Ⅰ】深見は、偽の手がかりをばら撒き、探偵である上田・奈緒子たちを操っていた。
【Ⅱ】偽の手がかりによる操りが行われると探偵は論理的には真実に辿り着けない。
【Ⅲ】奈緒子たちが到達したのはあて推量であり、作中では謎が完全に解決していない。
作中人物であるところの奈緒子たちは、作中内の手がかりから如何に論理的に推理しようとも、サイ・トレイラー編の完全な解明を行うことができない。
【Ⅳ】謎が解明されたのは深見の自白によるものであるが、より上位の解決が存在するかどうかについて奈緒子たちは判断できない。
それを我々が(上位の解決がないと)判断できるのは、視聴者として作中外の情報(放映されたシーン)を持っているためである。

では実際の部分と照らし合わせてみましょう。

■深見の行った操りに該当しそうな項目
岡本の行動も全て深見の支持と考えられるため該当としておきます。

b./b-1./b-3./c-1./f./f-1./f-2./g./i./k./l./n./
p-1./p-2./p-3./s./t./u./u-1./w./x./x-1.

まず、押さえておかなければならないのは、
深見のトリックは基本的に2種類存在するであろう点です。

(i)「快楽殺人者にゾ~ンの存在を信じ込ませるための手練手管」
これは、
b-1./b-3./f./f-1./g./i./l./s./t./u./w.
が該当します。

(ii)「探偵たちに、小早川こそが犯人であると気付かせるための手段」
これは、
k./l./n.
が該当します。
l.の緻密なトリックに比べ、n.の杜撰さが際立つためと指摘されています。また、深見の台詞「お嬢さん、あなたは最も優秀な追跡者でしたよ」も該当するでしょう。

【Ⅰ】について
上記2点を見る限り、深見が偽の手がかりをばら撒いたのは、
探偵たちを操ることで捜査の混乱を狙ったものではなく、「小早川を狂気に陥れるためである」と言えます。深見の言葉では、「あなた方は実によく協力してくれました」と言っています。

日本ではサイ・トレイリングをしないと言っておきながら、TVに出た途端
報酬と引き換えにサイ・トレイリングを行うといったのは、金に困っている小早川を引きずり出すためでした。
(恭子の死亡を確認すれば遺産が手に入るが、失踪者が死亡と認められるまで7年。あと4年待つ余裕は小早川にはなかった。しかし自分で遺体を見つけるわけにいかないため、深見に探させる。莫大な遺産と引き換えであればスポンサー出資などは安い出費である)

【Ⅱ】について
奈緒子は、深見の仕掛けた全てのトリックを完璧に見破っており、深見もそれを認めているようです。(深見の台詞「完璧です」)
トリックのみならず、奈緒子は深見の深層心理を指摘し、深見はそれをきっかけに独白をはじめます。
曰く、上田を巻き込んだのは、TVに自分のコーナーを持っていたためであること。
恭子の父が不在である=深見が恭子の実父であること。
岡本を使って小早川の連続快楽殺人を監視させていたこと。
小早川にゾ~ンの存在を信じさせるため岡本をそのトリガーにするつもりで最初から殺す予定だったこと。

【Ⅲ】について
奈緒子自身は深見に躍らされていただけと思っていますが、実は、トリックに関するそれではなく、その逆に、探偵に事件を解明させた上で、自らを逮捕させるために探偵を事件の核心へ誘導することが犯人の最大の目的だったことが示唆されています。
この点は、サイ・トレイラー編が後期クイーン問題に該当するかどうかの
焦点のひとつとなるのではないかと思いますが、「偽の手がかりによる操りによって」という点ではなく、「深見の心理を量ることは推量でしかできない」という点となるため、判断が難しいと思います。
後期クイーン問題が何によって引き起こされるかという定義によって解釈が異なるのではないでしょうか。

【Ⅳ】について
奈緒子と上田の会話より
「結局わたしたちは深見に躍らされていただけなのかもしれませんね」
「深見は全ての謎をとかせた上で自分を逮捕させることまで計画に入れていたんじゃないのか」
「待ってたんだよ深見は。ずーっと。ユーが追いつくのを、な」

これが所謂上位の解釈に相当するのではないでしょうか。
ただ、本格ミステリが閉じた形式であるところから、作中の謎を完全に解明することができないという不完全な形式であるというのが後期クイーン問題であるとすると、わたしはそれでも構わないと思います。
不完全であるからこそ、その先の幻想に思いをはせることができる。
深見はずーっと待ってたのかも知れないですね。
ゾ~ン。

▼2003年4月8日 もろやん No.05
二日間に渡る詳細な分析、ありがとうございます。サイトレイラー編の細部を徐々に徐々に思い出してきました。この作品、はじめに思っていたよりも面白い問題を指摘できそうですね。これまで僕は映像の本格ミステリ作品については文章を書いてこなかったのですが、Ash さんの書き込みから、なにかきっかけみたいなものが掴めたような気がしています。

さてさて、まずはいくつか論点を整理、補足させてください。というのは、僕の後期クイーン的問題の説明が言葉足らずだったために、論点がずれてきているように思えたからです。Ash さんの指摘は刺激的で、今後の展開がとても楽しみなのですが、それに入るための前段階として、まずは二人の間で後期クイーン的問題の射程を正確に把握しておくことにした方がいいのではないかと思います。

【補足1】
後期クイーン的問題を引き起こすトリックは、〈偽の手がかり〉のみに限られるわけではありません。後期クイーン問題の「典型的」な例が〈偽の手がかり〉トリックであって、この問題はすべての本格ミステリに生じうるものです。したがって、〈偽の手がかり〉が用いられていないからといって、「後期クイーン的問題が起きていない」とはいえません。また、後期クイーン的問題はすべての本格ミステリに生じるのだから、「〈この作品には〉問題が起きている/起きていない」といういい方は基本的にはできません(例外は『神曲法廷』など)。(この点は説明の例として『TRICK』の場合のみを挙げてしまったので、非常にわかりにくくなってしまったと反省しています)

【補足2】
これは【補足1】とも関係するのですが、後期クイーン的問題は探偵の推理の過程に生じる問題であって、実際の犯人の意図とは無関係です。したがって、犯人が探偵を操る意図があってもなくても、後期クイーン的問題は生じています。

【補足3】
後期クイーン的問題が指摘しているのは、探偵の推理の過程で、手がかりの真偽が決定不可能になってしまい、その結果、論理的に考えても推理を一つに絞りきれなくなるということです。誤解されがちですが、推理が一つに絞りきれなくなることは、推理を間違えてしまうこととイコールではありません。これらはレベルの違う問題です。したがって、作品の結末における事実と照らし合わせて、「推理が合っている/合っていない」ことを判断したとしても、それがそのまま「後期クイーン的問題が起きている/起きていない」ことの証明になるわけではありません。

【補足4】
後期クイーン的問題が生じているとしても、探偵が真実を言い当てる可能性がゼロになるわけではありません(これは【補足3】とも関係します)。当て推量がたまたま真実と一致する可能性は残されてます(問題なのは、探偵の推理が最初から最後まで論理に従っているわけではなくて、どこかで必ず当て推量になってしまうということです)。したがってサイトレイラー編に関していえば、後期クイーン的問題という立場から考えたとき、注目しなくてはならないのは、山田=仲間由紀恵や上田=阿部寛の推理が、深見=佐野史郎の仕組んだ犯罪を言い当てていたかどうかではなくて、「彼らの推理は当て推量のはずなのに、どうして事実を言い当てることになったのか」、あるいはそれを前提として生じる疑問、「ほんとうにその当て推量は事実を言い当てていたのか」ということです。

以上のような補足を踏まえて、Ash さんがまとめてくださった『TRICK サイトレイラー編』の僕の指摘をさらに詳しく説明します。

【Ⅰ】深見は、偽の手がかりをばら捲き、探偵である上田・奈緒子たちを操っていた。
→問題ないですが、偽の手がかりはあくまで後期クイーン的問題の「典型的」な例であることには注意して欲しいと思います。

【Ⅱ】偽の手がかりによる操りが行われると探偵は論理的には真実に辿り着けない。
→「〈論理的には〉辿り着けない」という部分を強調したいと思います。論理以外ものを用いて言い当てることは可能です。

【Ⅲ】奈緒子たちが到達したのはあて推量であり、作中では謎が完全に解決していない。
→何をもって「完全に解決していない」というのかが問題です。僕の意図としては、「探偵は論理的な可能性をすべて考えたわけではなく、他の推理の可能性が残されていた」という意味で使いたいところです。【補足3】で書いたように、それは推理が「当たっていた/間違っていた」という判断とは別のレベルのものとして考えています。

作中人物であるところの奈緒子たちは、作中内の手がかりから如何に論理的に推理しようとも、サイ・トレイラー編の完全な解明を行うことができない。
→補足はありません

【Ⅳ】謎が解明されたのは深見の自白によるものであるが、より上位の解決が存在するかどうかについて奈緒子たちは判断できない。
それを我々が(上位の解決がないと)判断できるのは、視聴者として作中外の情報(放映されたシーン)を持っているためである。
→補足はありません。

Ash さんは「深見の行動自体が後期クイーン的問題に該当しているかどうかの検証となるため、深見側から問題を見ていく方がいいと思います」と書かれています。この点に関してですが、まず【補足2】で書いたように、後期クイーン的問題は基本的に探偵の推理に関わる問題なので、犯人である深見の行動が問題に該当するかどうか、ということは射程から外れて、直接には関係のない要素になってしまいます(ただ、あとで書くように、実はこれは後期クイーン的問題という視点に立ったときの弱点なんですね。それをAsh さんは鋭く指摘していると思います)。だから、「TRICK」において深見側から後期クイーン的問題を見ていくことは、実は別の問題を語ることになっちゃうんです。

それは僕の指摘【Ⅰ~Ⅲ】についてのAsh さんの検証でも、やはりずれを生み出していると思います。Ash さんはこの【Ⅰ~Ⅲ】について、主に

(1)深見のトリックが必ずしも奈緒子たちを操るために用いられたものではなかったこと
(2)深見が自白で奈緒子たちの推理を認めていること
という二つのポイントで問題点を指摘していると思うんですが、これは実は、どちらも後期クイーン的問題とは直接には関わらない問題なんです。まず、(1)については、【補足Ⅰ、Ⅱ】で触れたように、偽の手がかりがあってもなくても後期クイーン的問題は生じるし、犯人の意図のあるなしでも同じことが起きます。

(2)については、深見の自白を最終的な解決であると判断する材料は、奈緒子たちは持っていない、ということが指摘できます。Ash さんは深見の自白を〈真実〉だという前提で検証を進め、それと奈緒子たちの推理とを照らし合わせるということをやっているわけですが、その〈真実〉は、果たして本当に〈真実〉なんでしょうか。深見はそれまで、さんざんトリックを用いて奈緒子をはじめ、登場人物を思うように操って罠にかけていたわけですよね。だとしたら、最後の自白自体も別の何かを隠蔽するための罠であると考えることもできるのではないでしょうか。作品世界〈内〉にいる奈緒子たちがどうして深見の最後の自白だけを信じなければならないのかと考えると、その根拠はとても曖昧です。

もちろん作品世界〈外〉に立っているAsh さんや僕には、彼の自白が〈真実〉であることはそれ以上物語が続いていないので自明のことなんですけどね。でもこれは、後期クイーン的問題という立場を取る場合、見逃せないポイントなんです。作中のすべての手がかりの真偽が確定できなくなるという後期クイーン的問題を考えるときには、最後の結末を基準とすることすら危うくなります。その結末すら、偽の結末である可能性が生じるわけですから。【Ⅰ~Ⅲ】についての僕からの意見は以上です。

次に【Ⅳ】ですが、Ash さんは「深見は全ての謎をとかせた上で自分を逮捕させることまで計画に入れていたんじゃないのか」という上田のセリフなどを「上位の解釈」ではないか、と指摘していますが、もちろんこれも奈緒子の推理に対する上位の解釈のひとつだといえると思います。が、上位の解釈は、必ずしもこれだけに限るわけではありません。先にも指摘した通り、結末で提示される〈真実〉すら、偽の手がかりである可能性があるからです。上田のセリフで語られる「上位の解釈」ですら、実は別の真実を隠蔽するための偽の〈真実〉であるかもしれません。そしてその〈真実〉も実は偽のもので、さらに上位の〈真実〉が……と、後期クイーン的問題を考えると、「上位の解釈」は無限に積み上げられていくわけですね。なにもそこまで……と思われるかもしれませんけど、この問題を徹底的に考えるとそうなっちゃうんです。

さて、ここまでで僕が感じた論点のずれについての説明は終わりにしたいと思います。僕の印象としては、後期クイーン的問題がAsh さんの語りたいことを助けているというより、逆に邪魔してしまったような感じですね(汗) 説明不足も重なって一層混乱させてしまったみたいで、とても恐縮しています。これからAsh さんが同じような視点から検証するときには、後期クイーン的問題からはいったん離れた方がよさそうな気がしました。ということで、ここからはAsh さんの文章で僕が面白いと感じた部分について書きます。

犯人の側から『TRICK』を考えるとどうなんだろう、というAsh さんの問いの立て方はとても魅力的だと思いました。というのは、前に触れたように、実は犯人の側というのは、後期クイーン的問題という視点に立ったとき、見えなくなってしまうポイントになるんですよね。あれは探偵の推理に焦点が当たるので、犯人の行動というのはいったんカッコのなかに入っちゃうんです。それをAsh さんは指摘されていたのだと思います。

とくに、「深見のトリックは基本的に2種類存在する」という指摘と、「探偵の事件を解明させた上で、自らを逮捕させるために探偵を事件の核心へ誘導することが犯人の最大の目的」であるという指摘には可能性を感じました。サイトレイラー編の犯人は探偵や他の登場人物たちの動きを見ながら、かなり複雑な振る舞いをしているわけですよね。探偵を真相へと到達させながら、当初は自らには嫌疑が及ばないようにしておきつつ、最後には自分が犯人であることを気づかせるようにして、殺人犯を追いつめる、という。犯人がこれを行うためには、それこそ複雑な関数みたいに、多くの要素を考えにいれながら行動を起こし続けなければならないですよね。しかもそこでは、犯人は蚊帳の外にいるわけではなくて、ある意味で当事者なわけだから、自分が操っている人物たちからの影響(フィードバック)も受けているはずです。このようなダイナミックな動きや推論は、探偵の側よりも実はかなり面白いのではないかと思っています。

それをどのような言葉、方法で分析したら一番よいのかということはまだ考えていないのですが、僕としてはむしろ、後期クイーン的問題をメインにして考えるよりも、犯人の側をメインにしたほうが、一層面白く『TRICK』を味わえるのではないかと思っています。

ここまでのやりとりでは、後期クイーン的問題について継続して考えていくか、それとも犯人の側に立って考えていくか、という大きく分けて二つの論点が提示されています。今後は、このどちらかに焦点を絞った方が話がしやすいと思います。Ash さんはどうお考えでしょうか? ゾ~ン。

▼2003年4月9日 Ash さん No.06
こんばんわ。
もろやんさん、こちらこそ詳細なレビューを頂きありがとうございました。ほぼ、予想通りの回答を頂き満足しています。実は No.03.04. は検証というより、No.02. からさらに面白く発展しそうだったため放映データを確認して頂くつもりで書いていました。後期クイーン的にいうとより上位の解釈を引き出すためというべきでしょうか(w。
No.05. を受け、サイ・トレイラー編の分析はこれからが面白くなる本番だと思いますが、わたしの知識が乏しいこともあり、まずは記事を一度読み直したいと思います。

▼2003年4月10日 もろやん No.07
No.03No.04 の目的が放送データの確認ということにあったということは了解です。とくに No.03 における要素の抽出は参考になりましたね。ありがとうございました。

ただ、すみません、ひとつだけ確認させてもらっていいですか? Ash さんが書かれた No.0304 について、Ash さんは No.02 からの「発展」という捉え方をしていらっしゃるようなんですが、僕としてはそれはむしろ「切断」だというふうに認識しているんですよ。というのは、僕が No.05 で書いたように、Ash さんの検証(または放送データの確認)は、後期クイーン的問題とは直接関係がなくて、犯人の側という全く別の立場からの立論になっていると考えるからです。ですから、そこから導き出せる解釈を「後期クイーン的にいうとより上位の解釈」というふうに取られてしまうと、僕としてはちょっと違和感を感じてしまうんですよね。Ash さんが導き出したいと考えている解釈は、後期クイーン的問題とは直接には関係がないはずなので(言い換えると、後期クイーン的問題という立場からでは語ることができないものなので)、この問題は切り離して考えた方がいいと思っています。

このような考えから、今後は後期クイーン的問題を土台としない方が、対談がスムーズに進むと僕は考えています。以上はあくまで No.05 の内容の確認なのですが、今後の展開を考えるととても重要なポイントだと思いましたので、煩雑になることを承知の上で確認させていただきました。もちろん、このような僕の論の立て方に問題があって、Ash さんの論には実は後期クイーン的問題が必要だということであれば、僕も考えを変える準備があるということは付け加えさせていただきますね。

さて、ここら辺で対談にもインターバルがおかれそうですが(僕もサイトレイラー編を見直さないといけないですし)、今後の展開について少し要望みたいなものを出してみたいと思います。といっても、これは僕の勝手な希望なので、完全に実現させることはないのですが、こんなことができたらいいなあ、というとてもとても都合のよい考えということで。

これは以前 Ash さんと掲示板でお話させていただいたときに出た話題だと記憶しているんですが、『TRICK』って小説じゃなくて映像作品じゃないですか。だから映像作品ならではの分析って、やってみたいんですよね。分析に、映像作品ならではの部分を入れてみたい。そうじゃないと、小説の『TRICK』を分析したのと同じことになっちゃうんで、それはなるべくなら避けたいなあ、と。といって、これは僕もあまり手をつけたことがない分野なんで、どうやったらいいのか、といわれると困ってしまうのですけどね……。

▼2003年4月10日 Ash さん No.08
こんばんわ。
No.02No.0304 についてですが、若干齟齬があったようで申し訳ありません。後期クイーン的に・・はレトリックというか、後期クイーン的なものから外れていてもそこからご指摘を得て理解を深めたいと目論んでいたので(w。No.05 よりお互いの立脚する支軸が異なっている点については認識していますので、OKです。

仰る通り今後のベースをクイーン問題と切り離す方がより『TRICK』を面白く語れそうですが、ただそうなると、当初後期クイーンについて知りたいと思っていた目的から外れてしまいますね。まあ、まずは法月の原文を少しかじってみてからと思っていますので。後期クイーンについては、もっと相応しいタイトルで進めた方がいいかも知れませんね。

『TRICK』を映像面から見ていくのは賛成です。わたしが挙げたのは、いわゆるプロットの部分だと思いますが、堤Dはそこから演出に入っているので、あれでは映像としての『TRICK』を見たことにはならないと思います。実際には、プロット>脚本・構成>演出という段階を踏み、映像になっているので。そうなると、今度は「@堤幸彦の作り方」も必携ツールになっちゃいますが・・(w。わたしの方は問題ないのでどんな形であれ宜しいですよ。

▼2003年4月11日 もろやん No.09
話の土台について、これで共通認識ができましたね。 後期クイーン的問題については、いろんなことを同時にやると収拾がつかなくなりそうなので、また別の機会にまとめてやりましょう。ひとまずは犯人の側からの検証と、映像という二つの軸ということで。

No.03 で Ash さんが分類してくださったシーン割りは、 映像から『TRICK』をとらえる上でとても役立つと思います。 プロットの段階だとしても、番号の振り方なんか、 やはり映像の方を意識してつけられていると思いますので。 『@堤幸彦の作り方』、さっそく探してきます。 それから、堤氏のトリックでの演出を研究したDVDなんかもでているようなんですが、 こちらもレンタルしていれば、観ておきますね。

▼2003年4月12日 Ash さん No.10
こんばんわ。実は初期クイーン論、昨日e-NovelsからDLして一通り目を通してきました。うーん、これは非常に難しいですね。テクストが縦横に引用されていてハイパーリンクが画面中に張られたWEBのようです。クイーンの苦悩というかそういうのはすごく伝わってきますけど、クイーン以外の実検証が薄いと思います。

法月自身も認めているように中途半端で終わっていて、あとは自分で検証してくれといっている感じですね。個人的には、読者への挑戦にこのような背景があったと知り非常に驚きました。二階堂黎人は、ヴァン・ダインの手法をとっていたんですね。

堤幸彦の作り方ですが、内容はまさに堤Dがトリックの演出をどのように行ったのかを研究した、堤マニアな内容でした。 さて、仰るようにここから話題を続けるとなると、二つの視点があるわけですが、犯人側からの検証は既にレシピが出ており、あとは料理するだけだと思います。
一方映像的には、サイ・トレイラー編に限定しても、堤Dの前衛的な手法に振れざるを得ないため、非常に難易度が高いです。とりあえず堤幸彦演出作品はある程度鑑賞しているつもりなのですが・・。堤映像作品を語るなら、chinese dinnerやケイゾク、IWGPあたりも捨てがたいですね。

▼2003年4月14日 もろやん No.11
掲示板のトラブルで一時はどうなるかと思いましたが、改めてここから対談を続けましょう。まずは僕の方から、No.10 の Ash さんの発言へ返信を。

「初期クイーン論」、e-novelsで購読されましたか。クイーン以外の実検証が薄いというのはなるほどと思いました。クイーンが一番本格ミステリ形式に自覚的で、問題をすくい上げやすいということで、対象として取り上げたんだと思いますが、ほかの作家だったらどんな分析になるのかということは、とても興味のあるところですね。

それから、あの論文には後に「一九三二年の傑作群をめぐって」という補論が書かれました。こちらは森英俊・山口雅也編『名探偵の世紀』(原書房、一九九九年)という本に収録されています。そちらで取り上げられているのは、クイーンが一九三二年に書いた作品で、本格ミステリの「形式化」という観点から具体的なトリックを視野に入れつつ、分析をしています。偽の手がかりトリックが推理をできなくする、という問題はこちらの論文の方が詳しく扱っています。

「読者への挑戦」の分析はおもしろかったですね。「読者への挑戦」は本格ミステリ形式をスタティックに保つための、メタレベルからの保証であると。後期クイーン的問題の根本は、「読者への挑戦」に代表されるメタレベルの情報を、探偵が知り得ないところにあるというところにある、と考えられています。

堤本についてちょっと質問です。インターネットなどで調べたのですが、『@堤幸彦の作り方』という書籍あるいはDVDは見つかりませんでした。もう少し詳しい情報をいただけますか? 書店では『堤っ!』を買ってきて、レンタル店では『トリックにおける堤幸彦演出研究序説』を借りてきたのですが、これらとは違うものですよね? どこにいったら手に入るのでしょうか。
その『堤っ!』と『研究序説』をざっと見たところの感想なのですが、堤氏が監督、演出した作品のなかでも、いろいろと性格の違いがあるようですね。『TRICK』は、アドリブを生かすために現場でカット割りなどをしているのに対して、『IWGP』などは比較的かっちり作られているのだとか。このあたりの差異が最終的にどう出るのかはわかりませんが、個人的には『TRICK』の方が極端な例として、おもしろい分析ができるのではないかと予想しています。『チャイニーズ・ディナー』など、ほかの作品を視野に入れておくのも大事だと思いますが、ひとまずは『TRICK』に絞るというのはどうでしょう。これまで話してきた本格ミステリというジャンルとの絡みや、サイトレイラー編の犯人側の話題とのつながりもありますし、ある程度範囲を狭めておいた方がよいと思うのですが。Ash さんはどうお考えでしょうか?

▼2003年4月14日 Ash さん No.12
こんばんわ。「一九三二年の傑作群をめぐって」の情報提供有難うございます。e-Novelsで出ていればいいのですが。 堤ビデオについては、「トリックにおける堤幸彦演出研究序説」で正しいです。わたしもそちらを見たのですが、題名を失念してましたね。申し訳ありません。
堤演出の傾向は、言われる通り、作品毎に共通事項と違いがありますね。金田一、ケイゾク、TRICK、チャイニーズ・ディナー、IWGPなど、完成度の高い作品においても、共通する部分、おのおの異なる部分があるのではと思います。これは、主にマーケティング的な理由からでしょう。時間帯であるとか、ターゲット層であるとか、番組予算であるとか。堤Dは作品に関わる際に簡単な方向性を決めているようですね。金田一映画では堂本とともさかの卒業的作品になるように、TRICKではジャーミーくんに代表されるような現場のアドリブ。IWGPはキャストというよりブクロの景観。チャイニーズ・ディナーは独創的な二人芝居。あとは一貫したロケーション主義ですかね。
さて、ここからは用意しておいた文面を。幾つか未レスになっていた部分もありましたので。

犯人側から見るTRICKについて。
犯人の側から見た場合に、犯人側の非常に動的な場の運動が明らかになってくるという考え方、面白いですね。
深見の場合は、自らへの虚偽を餌として(&&犯人側に悟られぬよう)
探偵を巧妙に「真相」へ誘導しつつ、真相に辿り着いた場合は自らを逮捕させることまで計算に入れていたことが指摘されている。この複雑系のような動きを指摘した上田はやはり物理の学者(w。TRICKのほかの話しとは、やはり構造のフクザツさが際立つエピソードですね。それを映像でやっている点がまた心憎いばかりです。

さて、わたしは、もろやんさんの書評と書きこみを見て、以前話題にも出されていたサイトレイラー編における偽の手掛かりにより真偽の決定不可能性が生じるという指摘に興味がありました。一体、どの部分で偽の手掛かりが仕組まれ、パラドックスが生じたのか?サイトレイラー編については非常に好きなエピソードであり、何度も見ているため、再度詳細に見ていきたいと思ったのが今回の動機です。
また、もろやんさんは02、05においてサイトレイラー編と後期クイーン問題についての説明を行われていますが、実際にTRICKにおける虚偽の手掛かりがどのように自己言及性を発生させ、真偽の不可能性を生じさせたかについては触れられていないのではないかと感じたので、その部分について考えてみたいという思いは変わりません。

ここで視点を映像に絞るか、または犯人側の視点から見ていくか方向異性を定めたあとで恐縮ですが、わたしが初期クイーン論を(斜め読みですが)目を通したことで、ある程度テクストを参考に理解することができると思います。そのため、再度、後期クイーン問題から見たサイトレイラー編に立ちかえるというのはどうでしょうか。
映像から見るのは、確かに至難の技ですし、犯人側の視点では主に上記に挙げたような帰結に落ち着くと思うのですが・・。
TRICKに限定するのは異存ありません。T-1のパントマイム霊能力殺人編などは、映像的には最も美しい部類に入ると思いますね。

▼2003年4月14日 Ash さん No.13
煩雑になることを承知の上で、ここで別のテクストを挿入しておきたいと思います。これはスレ中で引用できればと思い書いていたものですが、単に読み飛ばして頂いても構いません。話の展開によってはわたしの方では引用するかもしれません。

4.浜口大学受験編への還元
4/12のめちゃめちゃイケてる!では、一見、初期クイーン論を彷彿とさせるような企画が放映されていました。

仕掛人:岡村隆史
被害者:浜口優
探偵:存在しない(あえていうなら視聴者)
浜口の家庭教師:財部

1.SPバ○であるところの浜口優を、ある日、岡村は大学に絶対合格させると宣言した。ナイナイ面子はその言葉に疑いつつも、浜口を監視する。浜口には当然秘密である。

2.一方、それとは知らず、浜口は、自分を小ばかにしてきた面子を見返すために大学入学を目指すことにする。合格を宣言して驚かせるために一同には秘密にしておいた。浜口は自発的に行動したことになっており、岡村の直接的な働きかけで動いているのではない。
但し、あとで受かった際に企画とするため、カメラが回っていることは浜口は意識している。

3.浜口はドラマ「あすなろ白書」に出演していたが、その大学の同じ名前の予備校に通い始める。
しかし、この予備校は、岡村の仕掛けで、浜口のやる気を起こさせるため、美人女子高生ばかりで、しかも浜口より知的レベルが低い生徒ばかりで構成されていた。
さらに、浜口の志望校が、あすなろ白書のモデルとなった青学ということで青学在学の美人タレント財部が家庭教師につく。

4.浜口の学力向上が目覚しいことが描写される。
財部やサークルの女の子との会話や青学での浜口のシーンから「まさか、青学入学?」を予想させる。
(下位の階梯に対する虚偽の手掛かり=青学に受かりそうな描写)

5.そして受験当日。浜口合格と書かれたTシャツと、一緒にサークルに入るためテニスラケットを財部からもらい、合格を誓う浜口。
できがよかったことが描写される。
(下位の階梯に対する虚偽の手掛かり)

6.発表日、浜口の合否。当然というか、見事に落ちていた。
言い出しっぺの岡村を攻める一同。しかし岡村は大学には必ず合格すると妙な自信。
(上位の階梯に対する虚偽の手掛かり=これで終わりか受験企画、と思わせる)

7.実は、浜口のセンター試験が0点であったことが明かされる。
岡村はそれを知り、全国の大学を手当たり次第に受けさせるローラー作戦を敢行していたことを告げる。
浜口は各地の大学を受けていたが、その甲斐あり1校だけ受かっていた。
(上位の階梯を予想させる手掛かり)

8.浜口が受かった大学。それは岡村の用意した架空の大学であった。
浜口はそれと知らず大喜びで入学式に出席する。
あり得ない大学での、決してあり得ない入学式の行事が次々に展開されていく。
(上位の階梯の提示=浜口偽の大学に合格)

9.浜口はやらせであったことに気付き大ショックを受ける。

この回では、最初に浜口が大学に受かるかどうかの3ヶ月に渡る企画であることがナレーションにより告げられていた。
ところが、番組後半で8の真相に向けて浜口を騙す6ヶ月に渡る企画であることがナレーションにより告げられる。

この例では、視聴者は浜口や財部との描写などから、浜口が単純に青学に受かるかどうかの受験もの企画であることが虚偽の手掛かりとして提示された。

ところがこれは浜口騙しの壮大な企画であった。虚偽の手掛かりが視聴者に提示されたことで、普通の受験者企画であることを視聴者に推理させた上で、浜口、そして視聴者に更なる上位の真相「浜口が偽の大学に合格する」を提示し、ショックを与えることが目的だった。
これは、めちゃイケにおいて、何度か岡村などの受験企画が行われたり、通常の番組などで資格試験企画を視聴者が知っていることを逆手にとった手法と言える。岡村による虚偽の手掛かりにより視聴者は解決を予想するが、より上位の階梯の真相が提示されることで、視聴者は今後の企画内の手掛かりにより、番組がどのような「落ち」に達するのか推理することはできなくなる。それは、岡村の手掛かりが通常の受験もの企画に対する自己言及的なものであり、またそれは下位の階梯の「落ち」を否定するものであるためである。手掛かりが自己言及的で下位の階梯を否定する以上、どこまでいってもその連環は途切れることがない。虚偽の手掛かりにより、実は~実は~とどこまでいっても
自己言及的なフラクタル構造が続くからである。
すなわちこの時点でパラドックスが生じており、真偽の決定不可能性が生じているといえる。

▼2003年4月14日 もろやん No.14
前回のめちゃイケが後期クイーン的問題を彷彿とさせるという指摘、まさにその通りだと思いました。この番組は僕も見ていたのですが、岡村ひどいなあ、と思いながらも、浜口は試験会場にラケットを持ってくるし、どっちもどっちかなあ、なんて思ってました(笑)

さてさて、今度は後期クイーン的問題における「自己言及」というところがポイントになっているようです。これについては、まずめちゃイケの例で説明した方がわかりやすくなりそうなので、そちらを経由してから、『TRICK』の例に入っていきますね。

法月はこの論文で「自己言及」という言葉を、「作品の外部が内部にずれこんだような自己言及的な構造」のように、構造そのものの外部と内部、あるいはメタレベルとオブジェクトレベルの混同という意味で使っています。「ロジカル・タイプの侵犯」という言葉でも同じことがいわれているのですが、これはあくまで作品そのものの構造が「自己言及的」であるということです。法月はこの「自己言及」が起こる場合を大きく二つに分けています。つまり、

(1)犯人が被害者(死体)のレベルに下降する場合
(2)作者が犯人のレベルに下降する場合
の二つです。「被害者―犯人―作者」というラインで法月は考えていて、この3つのレベルの構造が維持されていないと(自己言及が禁止されていないと)、本格ミステリ作品はスタティックなものにならない、というわけです。

今回、Ash さんはめちゃイケでの「自己言及」を、

仕掛人:岡村隆史
被害者:浜口優
探偵:存在しない(あえていうなら視聴者)

という分け方から捉えて、「岡村の手掛かりが(今回のめちゃイケ内で放送された)通常の受験もの企画に対する自己言及的なもの」であるために後期クイーン的な問題が起きる、という風に結論していたと思います。この結論自体に問題はないと思います。が、番組の構造自体がはらむ「自己言及性」の説明について、多少説明を追加したいと思います。

今回のめちゃイケの構造は、岡村と浜口だけではなくて、矢部たちを含めないと全体像が描けません。また、視聴者というファクターを考えるとき、矢部たちの位置というのはとても重要になると思います。この構造を、法月にならって「被害者―犯人―作者」というラインで並べてみると、最終的に提示されるのは、岡村が矢部たちをもだましていたという真実なので、

「浜口(被害者)―矢部たち(犯人)―岡村(メタ犯人、作者)」

という構造になるわけですが、問題はこれが番組の終盤まで次のように提示されているように見えることです。

「浜口(被害者)―矢部たち、岡村(犯人)」

つまり、岡村はメタ犯人(作中において作者として振る舞える)という最上位のレベルにいたにもかかわらず、番組の途中まではそれを隠して、矢部たちと同じレベルにいる人物であるかのように振る舞っていたわけです。「外部が内部にずれ込んでいるような」構造が、ここに見られます。めちゃイケにおけるレベルの混同、ロジカル・タイプの侵犯はこの点で起こっている、と考えるのが法月理論では一番しっくりくるのではないでしょうか。そして、そのレベルの混同を生み出すために用いられたトリックが、岡村による偽の手がかりのばらまきだったというわけです。これからあとの説明は、Ash さんのものと同意見、ということで。

あ、視聴者について触れるのを忘れていた(汗) めちゃイケでは、基本的には視聴者は矢部たちと同じ位置で企画を体験させられるわけです。矢部たちははじめ、岡村と同じレベルで企画に携わっていると思っていたのですが、最終的には彼らも岡村にだまされていて、岡村は自分たちよりも上位にいた、ということがわかる仕組みです。とはいっても、視聴者というのは、作中人物とはまた違った情報を手に入れられる立場にいることになるので(どの部分が放送されたか、どんなナレーションが流されたか、など)、完全に同一の立場にいる、というのは問題があったりするのですが。

そういえばAsh さん、画面の右上に表示され続けていたテロップには気づかれました? あれにはずっと企画が「180日間に渡る騙し」であることが表示されていたんですよね。僕はなんでナレーションとテロップが違ってるんだろ、と思いながら観ていたんですが、真相を推理するまでには至らず。演出に引っ張られたのが非常に悔しいです。ちっ、岡村め……。

長くなってきたのでひとまずはこの辺で。

▼2003年4月14日 もろやん No.15
こうやっていろいろなことを書いたり考えたりしていると、次々に新しい問題点が浮かび上がってきてとてもエキサイティングですね。今回の書き込みでもまた、後期クイーン的問題の射程と、そこから見た「サイトレイラー編」の特殊性というのが浮かび上がってきたように思います。

前の書き込みで、めちゃイケの例を挙げて、「被害者―犯人―作者」のラインに混同が起こっていて、それが偽の手がかりによって引き起こされている、ということを指摘しました。基本的には、『TRICK』における「自己言及性」も、この方法で導き出していけばいいや、と思っていたのですが、実際にやってみようとするとそんなに簡単ではないことがわかってきました。というのは、検証してみたところ、僕が思っていたような形では、深見は偽の手がかりをばらまいていなかったことと(サイトレイラー編を見なおしたところ、No.2 における僕の「実は深見が〈偽の手がかり〉をばらまいて探偵である上田や奈緒子を操っていた、という真実が提示されましたよね」という部分は言い過ぎだったと気づきました(反省))、この作品においては、探偵が解決すべき謎が2系列あって、そのそれぞれで、「被害者―犯人―作者」にあたる要素が違うということ、という2つの原因があるからなんですね。この点、『TRICK』の分析がどうして難しいのか、というポイントになるんだと改めて知った次第です。

まず、謎の系列1は、快楽殺人犯の特定にまつわるものです。これを法月方式で考えると(作者の項は省略)、

「殺された女性たち(被害者)―小早川(犯人)」

という風になります。この構造は、作品の最終盤まで維持されます。つまり、快楽殺人犯の系列については、ロジカル・タイプの侵犯はなされておらず、構造はスタティックである、ということができます。

次に、謎の系列2ですが、これは岡本殺しの犯人特定にまつわるものです。1と同様の方法で構造を示してみると、

「岡本(被害者)―深見(犯人)―深見(メタ犯人、作者)」

ということになります。物語の最後で上田が語る言葉を信じるならば、深見は自らを逮捕させるために、犯罪をデザインしました。ですから、この系列では、犯人とメタ犯人(作者)の項、両方に深見が出てきてしまうわけです。もともとはただの犯人であったと考えられていた深見が、最後の最後でメタ犯人だったことが明かされることになるのですが、『TRICK』におけるロジカル・タイプの侵犯、レベルの混同は、ここに起こっている、と指摘することができます。(山田の推理の段階では、この構造は「岡本(被害者)―深見(犯人)」というふうに、単純に捉えられていたと考えられます)

ただ、先にも述べた通り、このような「自己言及」あるいはロジカル・タイプの侵犯は、法月理論の射程に対して少々特異な位置づけになります。というのは、深見が行った犯罪では、〈他人を犯人だと指摘するために、偽の手がかりが配置されている〉のではなくて、〈自分を犯人だと指摘するために、真の手がかりが配置されている〉からです。そのようにしてばらまかれた手がかりというのは、実際の犯人を指し示す、真の手がかりということになります。つまり、この作品では、偽の手がかりではなく、真の手がかりを用いてロジカル・タイプの侵犯が行われているのではないか、と考えることができてしまいます。そして、逆にいえばそれは、ロジカル・タイプは侵犯されているんだけれども、それでも(むしろそれゆえに)探偵は真実に到達できてしまうという特殊なケースである、ということも意味するように思います(まあ、簡単にいっちゃうと、恐ろしく手の込んだ自白、ということになるんですが。自己言及が必ずしもパラドックスを呼び込むわけではないという好例ですね)。

これまでが『TRICK』の構造における「自己言及性」の、僕なりのとらえ方です。思っていたよりも複雑ですね。なんというか、思考がゾ~ンに捉えられたような感じです(笑) もしかしたらまだ捉え切れていない問題もあるかもしれません。これはまた改めて考えてみる必要がありそうだと感じています。

さてさて、話を戻しますが、ここですぐに補足しておかなくてはならないのは、偽の手がかりが使われていないからといって、『TRICK』には後期クイーン的問題が起きていない、とはいえない、ということです(No.05【補足1】参照)。探偵の推理に起きる決定不可能性というのは、実のところ本格ミステリの構造に生じる「自己言及」とかロジカル・タイプの侵犯などとは関係なく起きている、と僕は考えます(だから、僕は後期クイーン的問題はすべての本格ミステリに起きている、というわけです)。というのは、どんなに論理的に推理しても探偵が真実にたどり着けない、という問題は、あくまで探偵の推理の〈過程〉に生じるのであって、話の結末がどうなったか、ということはひとまず関係のないファクターだからです。

その点で、めちゃイケや『TRICK』を例にしてやってきた、構造自体の「自己言及性」についての分析と、それまで僕が行ってきた後期クイーン的問題についての分析は、立脚する立場が決定的に異なっています。前者は「被害者―犯人―作者」のような構造を作品から抽出するわけですが、それが抽出できるためには、その作品がすでに〈完結している〉という前提が必要になります(完結していなかったら、たとえば誰が犯人なのかわからなくなってしまう)。逆にいえば、それらの分析は、作品を〈完結している〉ものとして捉えたうえで、推理に対して〈事後的に〉なされているわけです。

それに対して、僕がこれまで分析してきた探偵の推理に生じる問題は、あくまで推理の〈過程〉に起こるのであって、作品の結末というはひとまずカッコの中に入っちゃうんですね。というより、この問題を考えるうえでは、結末が本当に結末であるという保証すらなくなってしまうところまでいきます。だから僕は、「作中のすべての手がかりの真偽が確定できなくなるという後期クイーン的問題を考えるときには、最後の結末を基準とすることすら危うくなります。その結末すら、偽の結末である可能性が生じるわけですから」(No.05)というような発言をするわけです。

Ash さんは僕の説明について「実際にTRICKにおける虚偽の手掛かりがどのように自己言及性を発生させ、真偽の不可能性を生じさせたかについては触れられていないのではないか」と問題を指摘していますが、これについてはまず、『TRICK』においては虚偽の手がかりが〈実際には〉使われていなかった、というのがひとつの回答になったと思います。また、偽の手がかりは使われていなかったものの、自己言及の構造はあったので、その部分については、構造上特殊な形でロジカル・タイプの侵犯が起きている、ということを先ほど分析してみました。この二点については僕なりの回答を出してみたんですが、どうでしょうか?
残っているのは「具体的には真偽の決定不可能性がどのように起こるのか」という問題点だけだということになりますね。これについては、長くなってきましたので、次回の書き込みで書かせて頂きます。基本的には No.02 の説明と変わらないと思うんですが、もう少し詳しく説明してみます。

▼2003年4月15日 もろやん No.16
今日3回目の書き込みです。ふう。原稿用紙だったら何枚書いたんだろう(汗) 少なくとも3日分くらいは文章を書きましたね。と、それはさておき、本題に入りましょう。

『TRICK』では具体的には、どこで手がかりの真偽の決定不可能状態が起きているのか、という話題でした。前回の書き込みにも書いたように、基本的にはこれは、探偵の推理に起こる問題です。ですから、以下の記述は、作中の登場人物である探偵の立場に立ったときに見られる決定不可能性であるということを先にいっておきますね。

奈緒子と上田の推理には穴があります。彼らの推理は、すべての可能性を論理的に考えたわけではありません。論理に寄り添って考えるならば、自ずとほかの推理の可能性も描けてしまいます。

奈緒子は江戸っ子に出会ったことで深見のサイ・トレイリング能力が嘘であることを推理し、そこからさらに、深見と岡本とがはじめからグルだったことを推理します。深見のサイ・トレイリング能力が嘘だったということになると、次に問題になったのは、深見はどうして、被害者たちが埋められていた場所を知っていたのか、という点でしたね。奈緒子はこの疑問から出発して、こう推理していきます。

(1)深見には恭子殺人についてアリバイがある
(2)深見は犯人ではない
(3)それなのになぜ深見は被害者が埋められている場所を知っていたのか
(4)深見は岡本に小早川を監視させ第二、第三、第四の被害者が埋められている場所をチェックさせていた
(5)四人を殺した快楽殺人犯は小早川

この推理は蓋然性ということからいえば、ひとまず筋が通っているといっていいと思います。しかし、これだけの情報から導き出せる、筋の通った推理は、これひとつに限るわけではありません。たとえば、(4)と(5)のつながりに注目してみると、かなりの論理の飛躍を見ることができます。(4)でわかることというのは、厳密にいえば第二、第三、第四の被害者を殺したのが小早川だということだけなんですね。第一の事件については、犯人が小早川であるということは論証できないはずなんです。岡本は殺害現場を見ていないはずですから。それを奈緒子は一気に、「小早川が三人殺した」→「したがって小早川が四人殺した快楽殺人犯である」という風に、拡張してしまっているわけです。奈緒子が推理する時点では、第一の殺人が小早川以外の人間が行っていたという可能性は消されていなかったと考えることもできます。奈緒子はまず、この推理の可能性を見逃してしまっています。

また、別の推理も可能です。岡本が小早川を監視していたということは、つまり、犯行があった時間、岡本も被害者の殺害現場の近くにいたということですよね。少なくとも、岡本にはその時刻のアリバイはないわけです。だとしたら、第二、第三、第四の事件の犯人は、何も小早川だけに限る必要はありません。岡本にも彼女らを殺害する時間があったことになりますから。実は第二、第三、第四の被害者とその死体の遺棄は岡本が行ったことで、それを岡本が小早川のせいにしようとして深見に嘘の報告した、と考えることもできます。もちろん、岡本と小早川が共犯で、二人で快楽殺人を行っていた可能性だってまだ残っていますね。これらの推理も、やはり奈緒子は見逃しています。

話の筋からいって、第一の殺人を小早川が行った、というのは動かせないところでしょう。小早川は犯人しか知らない情報=恭子の死体が埋まっている場所を知っていたわけですから。しかし、第二、第三、第四の殺人に関して言えば、犯人はまだグレーです。この点は奈緒子の推理では論証されていません。それなのに、どうして奈緒子は(1)~(5)のような推理を提示できたのでしょうか。論理的に考えれば、奈緒子の推理と同じく、筋の通った別の推理を提示することもできます。つまり、この(4)から(5)の段階だけを取り出してみても、推理を一つに絞るなんてことはできません。でも、奈緒子はそのような可能性に触れることなく、自らの解釈に飛びついているわけです。その判断は論理を突き詰めた結果ではありません。最終的には当て推量で、推理=解釈を作り上げていることになります(このような当て推量は、『TRICK』の推理のほかのところでも指摘できると思います)。

奈緒子はこのような穴のあるはずの推理を披露して、深見から「完璧です」「お嬢さん、あなたは最も優秀な追跡者でしたよ」「あなた方は実によく協力してくれました」などといわれています。これは素直に読めば、奈緒子の推理が(たまたま)真実を言い当てていたことを深見が保証している言葉のようにとることができるんですが、しかし、この言葉が真実であるという保証は、作品世界〈外〉から見た場合はともかくとして、作品世界〈内〉から見るとどこにもないことになります。この言葉自体、偽の自白だったのではないか、という疑いは、奈緒子たちの前には依然として存在し続けます。つまり、論理的に考えると、奈緒子たちの推理は必ずしも唯一絶対の真実とはいえないものであり、さらに、それを保証するように見える言葉も、偽の手がかりであることを疑えば疑えてしまう(つまり、偽の手がかりが〈実際に使われているかどうか〉ではなくて、偽の手がかりが使われたことが〈想定できるかどうか〉ということが、探偵の推理においては重要なわけですね)。ここにおいて、探偵の推理は手がかりの真偽の決定不可能状態に陥ってしまいます。そこでは、あらゆる手がかりの真偽が反転し続けてしまって、どの手がかりを信じていいのかわからないとい状態が出現します。メタレベルの情報を知り得ない探偵は、論理によっては手がかりから導き出せる推理をひとつに収束することができません。これが『TRICK』の探偵の推理における後期クイーン的問題だと僕は考えます。

別の言い方をすれば、「完璧です」「お嬢さん、あなたは最も優秀な追跡者でしたよ」「あなた方は実によく協力してくれました」という深見の言葉は、単に〈奈緒子たちの推理が深見にとって都合のよいものだった〉ということをいっているにすぎない可能性があるということです。その場合、深見は自分が逮捕されることによって、なにか別の真相を隠蔽していたことを疑うことができます。もっといえば、奈緒子と上田が到達した真相の、さらに上位の真相が隠されている可能性は、作中人物には否定することができない。深見のさらに上位にいる犯人、その犯人のさらに上位にいる犯人……がいて、そのそれぞれが手がかりをばらまいて登場人物たちを操っていた、と考えることは不可能ではありません。そして、そのように考えていくと、原理上作品世界がどこで終わっているかを知ることができない探偵は、常に新しい手がかりの出現を念頭に置かなければいけなくなって、どこまでいっても推理を絞りきれなくなってしまう、とそういうわけです。以上、『TRICK』における後期クイーン的問題を説明してみました。

もうおわかりかと思いますが、後期クイーン的問題が引き起こされる原因は、法月が指摘するような構造の「自己言及性」と取るより、世界がどこで終わっているかわからない、といういわば「無限性」ととる方が的確だと僕は考えています。元ネタになったゲーデルの不完全性定理を考えてみても、やはりこれは無限集合にかんする証明になっているんですね。あ、これは野矢茂樹『無限論の教室』(講談社現代新書)とか柳川貴之さんの論文『推理小説の形式的構造論』(『創元推理21 2001年冬号』所収)などを読んで仕入れた知識なんですけど(汗)

ということで、本日3回目の書き込みが終了しました。めちゃイケに『初期クイーン論』の射程、奈緒子の推理の穴……この話題が全部つながっているというのだから、僕も驚きです。なんか、すごいことになってきましたね(笑)

▼2003年4月15日 Ash さん No.17
こんばんわ。先ほど帰宅しました。会議会議でどこまでいっても決定不可能状況なのはリアルでも同じですね。
詳細な分析と書きこみ、まずはお疲れさまです。一読しましたがとてもレスできる状況ではないので(w。後日させて頂きます。

あと、連絡事項ですが、突発的対談 html のわたしの書きこみのうち、

『もろやんさんのご指摘を整理すると次のような点が挙げられるかと思います。 のあとの、
【Ⅰ】深見は、偽の手がかりをばら撒き、探偵である上田・奈緒子たちを操っていた。』
がさきほど見たところ、なかったように思うのですが、宜しければ確認をお願いします。

▼2003年4月15日 Ash さん No.18
と、思ったのですが、もろやんさんの分析のうち、少し気になった点がありましたので、それだけレスしてみたいと思います。 まず、これまでの書きこみにおいて、もろやんさんは主に、TRICKを構造面から分析されているかと思います。TRICKのサイトレイラー編を実検証されているのは、主に No.16 であると思いますが、予め No.16 の結論を念頭に置かれた上で、No.11 の一連の分析を行われているかと思います。

▼2003年4月15日 Ash さん No.19
No.18 は手が震えて(w投稿してしまいました(w。もう限界かもですね。ですがきりのいいところで終わっているので、続けます。
No.15 において

「というのは、検証してみたところ、僕が思っていたような形では、深見は偽の手がかりをばらまいていなかったことと(サイトレイラー編を見なおしたところ、No.2 における僕の「実は深見が〈偽の手がかり〉をばらまいて探偵である上田や奈緒子を操っていた、という真実が提示されましたよね」という部分は言い過ぎだったと気づきました」

と書かれていますが、実のところ、わたしは深見が虚偽の手掛かりを用いて上田や奈緒子を操っていた、というのは、言い過ぎではないと思います。03-k において、深見は石原に自宅に赴かせた上で声を聞かせており、その上で人面タクシーのトリックを使ったことを探偵らに推理されています。これは、崩壊を前提とした手掛かりであり、真の手掛かりではありません。自分のトリックを暴かせた上で自動的に小早川のトリックを奈緒子たちに気付かせ、小早川のトリックをも連鎖的に崩壊させるための、仕組まれた虚偽の手掛かりといえます。しかも、同時にこれは、その間のアリバイを一時的に得た上で、人面タクシーのトリックを行う時間的猶予を得るためのダブル・トリックであるということができます。人面タクシーのトリックは小早川にゾ~ンの存在を信じ込ませるための布石でした。よって、この二つのトリックにより、深見は探偵にトリックを崩壊させるヒントを与える一方、メタ犯人として犯人(小早川)の深層心理をも操っていたことになります。そもそも、発端から、恭子が人面タクシーに乗って失踪した、という岡本の依頼からして、深見の虚偽のトリックが使用されていたわけで、この時点から小早川を罠に誘い込むための心理トリックが使用されていたことになりますが、これは同時に冒頭で人面タクシーの都市伝説を見せておいて、そのトリックの首謀者である(または「であろう」)深見を「犯人」に見立てさせる(「が実はメタ犯人であった」)という視聴者を欺くトリックをも使用されていたことになります。このエピソードにおける、人面タクシーの存在を、軽視してはならないのではないかと思います。

2点目として、もろやんさんは No.16 において

「厳密にいえば第二、第三、第四の被害者を殺したのが小早川だということだけなんですね。第一の事件については、犯人が小早川であるということは論証できないはずなんです。」

と指摘されていますが、この検証においては論点が抜け落ちています。それは、犯罪の動機です。小早川は、確かに快楽殺人者だったかもしれませんが、それだけで行動していたのではありません。小早川と岡本は、金銭面のトラブルを抱えていたことが描写されています。これは、厳密にいうとTRICK内で描写されていない点ですが、小早川の第一の殺人目的は、小早川グループの末裔である恭子を殺害することで、唯一の親族である自分に遺産が転がり込んでくることを目的にして殺害したと考えることもできます。これは、作品中では「スポンサーとして小早川が名乗り出てくる」動機としてしか描写されていません。しかし普通に考えると金に困っている小早川が恭子を殺害することで大金を得ようと考えるのは至極当然です。わたしはむしろ、第一の殺人動機は金銭にあり、その殺人時の快楽から、小早川は快楽殺人の道に走ったのではないかとさえ思います。第一の失踪者は恭子であり、その後連続して3人のうら若き眼鏡の才媛が失踪していますが、深見による快楽殺人に至る心理の説明では、一度その味をしめると自分では止められなくなる、といったようなことが言われていたと思います。これは、快楽殺人が、快楽殺人故の殺人動機であることを示唆しています。つまり、第一と第二以降の、決定的な差が、其処に生じている。それを深見は言いたかったのではないでしょうか。
深見の目的は、その小早川を事件の渦中に引きずり出すことで、心理的圧迫を与えることでした。

また、岡本についても金銭のトラブルが描写されていますが、岡本は恭子を殺害しても手元に何も残らないので、金銭面から見た疑惑の対象からは外れることになります。
このことから、第一の事件については、犯人が小早川であるということは論理的に何の理由もないということにはあたらないのではないでしょうか。

これ以降の論点としては、主に構造上のものを説明されていると思いますので、めちゃイケ等含め、後日レスしたいと思います。 あと、このスレネタ、「思考がゾ~ンに捉われたような感じ」!まさにその感じです!今日一番面白かったネタです。思わず、WWWWWがつくくらい笑ってしまいました(w。
ゾ~ン!

▼2003年4月15日 もろやん No.20
ゾ~ンにとらわれ続けているもろやんです。そのうち寝言でゾ~ン!などと叫んでしまわないか心配になってます。いやほんとに。さて、htmlの方のミス、さっそく修正しました。チェックしてみたところ、僕の方でタグを打ち間違えていたみたいです。タグの閉じカッコがピリオドに……。シフトキー押し忘れてました、すみません(汗)

ええと、では本題に。Ash さんは2点、疑問点を挙げられているので、そのそれぞれに、なるべく手短に(と書いて自分にプレッシャーを与える)お答えしていきますね。

まず、「わたしは深見が虚偽の手掛かりを用いて上田や奈緒子を操っていた、というのは、言い過ぎではないと思います」というところなんですが、説明を読んでなるほどと納得しながら、いくつか未整理の論点があることに気がつきました。これはその手がかりが〈誰にとって、誰から見て真なのか、偽なのか〉またその手がかりの〈何をもって真とするか、偽とするか〉というところとも関係するんじゃないのかな、と思ったわけです。探偵の側から見て、真実に到達するために必要な解釈を得られる手がかり(探偵を誤導させないために使われる手がかり)、というのを真だとするなら、深見のばらまいた手がかりは全部真だと捉えられることになると思いますが(僕はこちらの立場で説明していました)、Ash さんがおっしゃるように、犯人の側から見ると、確かに嘘の証言をしたり虚偽のアリバイを作ったりといったトリックが使われているんですよね。このような齟齬は、おそらくは「メタ犯人が自らの犯罪を暴かせる」というサイトレイラー編の構造に起因しているように思います。ううむ、改めてやっかいな題材だなあ、と思った次第です。これ、おもしろそうです。もう少しつっこんで考えましょう。

2点目の「第一の事件については、犯人が小早川であるということは論理的に何の理由もないということにはあたらないのではないでしょうか」については、その通りだと思います(ただし論理的に、という言葉は強すぎるかなと(汗))。僕がいいたかったのは、小早川も犯人である可能性があるけれども(僕はこの可能性を否定していません)、岡本だって犯人であるかもしれない、それにもしかしたら、ただの通りすがりの人が犯人だったのかもしれない、下手をするとUFOから宇宙人が降りてきて殺したのかもしれない、ということです。つまり、必ずしも小早川だけに犯人が絞られるわけではないのに、どうして奈緒子は小早川を犯人だといえちゃうんだろうなあ、と。

これは動機から考えても同じですね。Ash さんがおっしゃるように、動機の点から考えて、小早川が一番あやしい、というのはわかります。でもそれはあくまで小早川が犯人である〈可能性〉や〈蓋然性〉が高いということですよね。「普通に考えると金に困っている小早川が恭子を殺害することで大金を得ようと考えるのは至極当然です」とAsh さんは書いていますが、だからといって〈小早川が恭子を殺した〉と100%言い切れるところまではいかないのではないでしょうか。小早川が思っていてもやらないでいたら、誰か別の人間が出てきて恭子を殺してしまった、ということも考えられるわけです(描写されていないことは論証のしようがありませんが)。このように、動機という面を考慮しても(ちなみに僕は動機というのは犯人特定の論理には全く役に立たないファクターだと思うんですが)、第一の事件の犯人は小早川に絞られるわけではないと僕は考えています。

以上2点、いつもより短く書いてみました。……でも長いなあ。理想としてはこの半分くらいにおさめたいところです。ということで、ゾ~ン!

▼2003年4月19日 Ash さん No.21
こんばんわ。
さて、ここまで長い道程を踏んできましたが、そろそろ競技場に入ってきて、トラック周回というところまできたような感じですか。
私事ですが今週は睡眠時間が平均3時間を切っており身の危険を感じたためレスを控えておりましたが、ひとまず客先への仕様確認段階となり
来週に持ち越しとなったので、スレッドの流れを確認する意味でレスしてみます。
しかし小難しい概念やら文章を普段からこねくり回していると、複雑奇怪な仕様定義書も抵抗なく読めてしまうのが不思議というかなんというか。

ひとつ、お願いがあるのですが、
TRICKに関するこの対談は、後期クイーン論に端を発しており、
その意味では、クイーン論に関する話題展開の際、参考にすべき第一のテクストは初期クイーン論であるという認識でいます。それ以外のテクストを使うのは、互いの依拠する論拠にずれを発生させてしまう可能性があるためです。
もし使う場合は、めちゃイケの例のように、別途完全な形でのテクストを挿入していきたいと思います。

第2点として、上記に即し、わたし、もろやんさんは互いに初期クイーン論からの引用を行うことがありますが、引用文がどの部分からのものであるのか、正確に記してはどうかということです。
これは、ある引用が、論文のどの部分のものであるのか、探すのに非常に骨が折れてしまうためです。
直接的な引用であり、且つ対談の方向性に重要な意味を持つ引用については、上記のような扱いをしていった方が宜しいかと思います。
具体的には何ページ目かを記していけばいいと思います。

▼2003年4月19日 Ash さん No.22
No.21 の続きです。

No.11 もろやんさん
・対談スレッドの続き
・レス

No.12 Ash
No.11 への返信

No.13 Ash
・浜口大学受験テクストの挿入。
これは見ていてまさに後期クイーン問題発生か、と思われたのでそれらしくアレンジしてみました。自分なりに法月の論旨を確認するためでしたが、どちらかというとネタになってしまいましたかね。
テロップは気付きませんでした。

No.14 もろやんさん
No.13 への返信
・浜口大学受験の構造分析
・番組の構造自体が孕む「自己言及性」の説明
これについては、書かれている
(1)犯人が被害者(死体)のレベルに下降する場合
クイーン論のどの部分を指したものか分からないので、レス保留とします。

No.15 もろやんさん
・『TRICK』の構造における「自己言及性」の捉え方
これも同じ理由で保留とします。

・「TRICK、めちゃイケの構造自体の「自己言及性」についての分析」と、「後期クイーン的問題についてのもろやんさんの分析」が異なる立場に立脚していることの解説

これについては、当初、わたしはもろやんさんの書きこみから、後期クイーン問題の一般的な観点と捉え方から論じられているものと思っていました。
しかし、ここまでの書きこみを見ると、もろやんさんと、法月の書いている論旨にはずれがあるというか、もろやんさんによる後期クイーン問題の捉え方を第一義的テクストとして分析を進められているように感じます。
もちろん、自らの分析やレビューを進める場合、取り得る手法と思いますが、少なくとも対談上では、共通の視野で進めないと、異なった一義的テクストから論じられた場合、お互いそれが正しいかどうかの判別がつかないまま進めざるを得ません。
例えばもろやんさんは、No.05 の【補足】にて後期クイーン問題の定義を記されていますが、途中から、それが自分の考えであり~というような書き方をされてきているため、わたしはこの対談においてどちらが一義的テクストなのかどうか判断できません。 わたしは、後期クイーン的問題は、探偵の推理の過程というよりも、本格ミステリという形式に生じる、構造上の問題であるように感じました。
そのため、No.21 でわたしは一義的テクストを一意に定める方がよいと提唱しています。
または、それを対談の中である程度証明する必要があると思います。
上記、及び No.14 と同じ理由で保留とします。

No.16 もろやんさん
・対談スレッドの続き(2)
・サイトレイラー編の実検証
これについてはひとまず No.13 で書いている通りです。

・作中の登場人物である探偵の立場に立ったときに見られる決定不可能性の分析
もろやんさんの分析によると、次の2点が挙げられるかと思います。
1.(4)から(5)に至る探偵の論理飛躍が当て推量であるため、
探偵の推理は手がかりの真偽の決定不可能状態に陥ってしまう

2.深見の言葉が真相を保証するものであることを証明できない。
「真実を言い当てていたことを深見が保証している言葉のようにとることができるんですが、
(中略)
これが『TRICK』の探偵の推理における後期クイーン的問題だと僕は考えます。」

これも上記と同じく、何をもって後期クイーン的問題と論じられているかが、曖昧になってきているので保留とします。

・後期クイーン問題が引き起こされる原因は、法月が指摘するような構造の自己言及性と取るより、世界の無限性と捉える方が的確である。
「後期クイーン的問題が引き起こされる原因は、法月が指摘するような構造の「自己言及性」と取るより、世界がどこで終わっているかわからない、といういわば「無限性」ととる方が的確だと僕は考えています。」
同じく保留とします。

No.17 Ash
No.18 Ash
No.19 Ash
No.16 サイトレイラー編実検証への反駁
「第一と第二以降の、決定的な差が、其処に生じている。それを深見は言いたかったのではないでしょうか。 」
これは自分で見直していてちょっとおかしいと気付きました。
仮にそうだとすると、小早川が恭子を殺したタイミングが早過ぎる。手段に矛盾があり、小早川は殺人衝動癖をもっていた。寧ろ、第二から第四までの連鎖がミッシング・リンクでない点を作中深見の口から代弁していると考える方が的確です。そう捉えるなら、奈緒子が第二-第四について推理をすっ飛ばしている点がはっきりします。階梯の侵蝕というやつですね。
またこれは No.16 への回答にもなり得ます。
当て推量が指摘の通り作品の手続き上の問題であり、作品世界内の問題ではないということです。分かりやすくいうと、こうなります。

奈緒子「小早川が三人殺した」
→深見「快楽殺人は快楽殺人故の殺人動機である」
→奈緒子「したがって小早川が四人殺した快楽殺人犯である」
→「第一の殺人が小早川以外の人間が行っていたという推理の可能性を奈緒子は【見逃す】」
→「推理の可能性への忘却とは、作品それ自体により要求される必然性故に生じている」

No.19 についてわたしは次のように述べています。
「そもそも、発端から、恭子が人面タクシーに乗って失踪した、という岡本の依頼からして、深見の虚偽のトリックが使用されていたわけで、(中略)このエピソードにおける、人面タクシーの存在を、軽視してはならないのではないかと思います。」
これについては No.16 においては特に触れられていませんが、後期クイーン論とTRICKという観点において重要な点なので、再度触れてみたいと思います。
人面タクシーは、深見が小早川の心理を操るための布石でした。都市伝説が事前なのか事後なのか分かりませんが、岡本が恭子失踪について人面タクシーの存在にふれていることから、深見が都市伝説を布石の手段に利用したと考える方が適切でしょう。
但し、冒頭のシーンが現在時に繋がるという描写は一言もありません。
あれが恭子失踪後のものであり、恭子失踪がタクシー出現の都市伝説のきっかけになった可能性もあります。

上記で述べているように、深見が小早川を操るための手段だったはずの
人面タクシーが、同時に視聴者を欺くためのトリックとして使用されていることは、人面タクシーという、作中での犯人の手段に過ぎなかったものが、作中外の視聴者への提示というメタレベルに移行してきているということになります。なぜ、そう言えるのか?
言うまでもなく、冒頭で作品に登場する人面タクシーの都市伝説を取り出し、強烈に提示しているのは、深見ではなく、演出家の堤Dだからです。ここにおいて、メタレベルの堤Dが作中内のある対象を作中外に取り出すという作業を行っていることになりますが、こうした手法は、サイ・トレイラー編のみならず、TRICK全般で使用されていることは
言うまでもありません。
これは、いわゆるプロットとストーリーの問題(P27)で、ある事実であるところのストーリーAが、作者によりプロットとして解体・再構築され恣意的なストーリーAダッシュの提示がされていることを示しています。我々視聴者が見るのは、ここではストーリーAでなく、堤Dから見た恣意的なストーリーAダッシュであることが明らかになります。
ここでは再構築の狙いは作品の主題を強調することです。
これはまた、演出から見た時の観点としても中々に有効な見方ではないかと思います。

No.20 もろやんさん
No.19 への反駁
・未整理の論点の抽出(「真の」/「虚偽の」手掛かりとは?)

「探偵の側から見て、真実に到達するために必要な解釈を得られる手がかり(探偵を誤導させないために使われる手がかり)、というのを真だとするなら、深見のばらまいた手がかりは全部真だと捉えられることになると思いますが(僕はこちらの立場で説明していました)、Ash さんがおっしゃるように、犯人の側から見ると、確かに嘘の証言をしたり虚偽のアリバイを作ったりといったトリックが使われているんですよね。」

虚偽の手掛かりとして法月が位置付けているのは、引用文中のP37において見受けられます。
「氏は、犯人が仕組んだトリックとしての偽の手掛かりに注目し、その偽の手掛かりに基いて探偵エラリイが展開する誤った推理のひとつひとつが本格ミステリーたりうる骨格を備えていることを指摘する。
さらにこれらの誤った推理そのものも、最終的な正しい推理の要素=部分集合として包含されるという多重構造がギリシア棺の謎のメタ・ミステリー性を証明しているという。」

これによると偽の手掛かりというのは犯人が仕組んだものであり、それによる誤った推理をも正しい推理の一要素として包含されるということになり、その意味では
「犯人の側から見ると、確かに嘘の証言をしたり虚偽のアリバイを作ったりといったトリックが使われている」
ことが虚偽の手掛かりであると定義付けることができます。

次に、
「僕がいいたかったのは、(中略)ただの通りすがりの人が犯人だったのかもしれない、下手をするとUFOから宇宙人が降りてきて殺したのかもしれない、ということです。つまり、必ずしも小早川だけに犯人が絞られるわけではないのに、どうして奈緒子は小早川を犯人だといえちゃうんだろうなあ、と 」
これについては、犯人特定の不可能性と、動機面からみて言われていますが、これは系の関係性というか、そういうことに関係があると思います。それを無視した場合、個々の事実を独立した対象としてみると、そのように見えてしまうかとは思うのですが、例えばこのストーリーにおいて宇宙人が恭子を殺したというのは逆にあり得ないと思うのです。でないと、深見の行動やサイ・トレイリング、岡本、小早川など全ての要素が意味を失ってしまいます。TRICKは一応、論理を標榜する立場に立脚したドラマなので、論理の破綻は許しても、論理自体の構築は必ず試みます。
TRICKがバカ・ミスであるならともかく、通りすがりや宇宙人が殺害した、というのはTRICKを見ていく上で全く観点に沿っていないと言わざるを得ません。
人物と要素の関係性でいうと、深見、岡本、小早川の誰かが殺害したことは間違いなく、そこからアリバイ・トリック・手掛かり・動機といった面を見ていくと、「深見にはアリバイがある。岡本には動機がない。
3人殺した犯人が一人目も殺した。両方ありそうなすなわち犯人は小早川」という分析を奈緒子は行っていますが、
但し、奈緒子の推理が成立つのは当て推量の偶然でなく、作品の持つ必然性であると思います。
二人目以降は快楽殺人という、深見からのバックボーンが与えられているため、奈緒子の推理が成立つのではないか、というのは上記で書いたとおりです。
動機面から見て小早川が犯人に特定できないという点については異論ありません。実際、出ている要素以外の部分では推理を構築できないわけです。ただ、
「このように、動機という面を考慮しても(ちなみに僕は動機というのは犯人特定の論理には全く役に立たないファクターだと思うんですが)」
とされていますが、動機についてはフー・ダニットを特定する上で無視できない要素だと思うのですが、特にこの対談上では大きな要素にならないと判断し、このまま進めることとします。

▼2003年4月20日 もろやん No.23
こんばんは、やはりお仕事で忙しかったのですね。この対談には予防線のように「ぐうたらな」という枕言葉がついていますので(笑)、本当に、無理のない範囲で続けていければと思っています。僕の方も、新年度が始まって忙しくなってくると、しばらく返信ができないことがあるかもしれませんので。

さて、Ash さんの提案、了解しました。今後は法月の「初期クイーン論」に則って、作品の構造の方に注目しつつ、議論を進めていきます(ただ、ページ数は僕は『現代思想』の方を参照しているので、節の番号にしていただけるとありがたいです)。このような混乱が起こってしまったのは、結局、はじめの段階で僕の方で十分な説明ができていなかったからですね。どこまで踏み込んで語ればいいのか、どこまで精密なものが求められているのか、論の見通しがたたないままではじめる対談がいかに難しいものか、つくづく思い知りました。はじめにいまの本格ミステリシーンで語られている「後期クイーン的問題」の全体図を示すことができていれば、きっと問題は起こらなかっただろうと反省しています。

その「後期クイーン的問題」の混乱についてですが、ここ数日、ことあるごとに考えていました。なんでこういう風になったのかな、と。それで遅ればせながら気がついたのは、90年代以降のミステリ・シーンのなかで、とくに実作を分析する際に用いられる「後期クイーン的問題」と、法月が指摘したような「後期クイーン的問題」とは、同根の問題ではあるものの、力点の置き方が決定的に違っていたということです。別の言い方をすれば、「初期クイーン論」は、底ではつながっている二方向の問題を指摘した、といいますか。そのうち、実作の分析によく持ち出される方の問題が僕がずっと説明していたもので、ミステリ・シーンでは「後期クイーン的問題」というと、八割方こちらの意味で使われていました。(ちなみに後期クイーン的問題という名称は、法月自身の命名ではありません。たぶん笠井潔あたりがその発端かなと)

Ash さんは「ここまでの書きこみを見ると、もろやんさんと、法月の書いている論旨にはずれがあるというか、もろやんさんによる後期クイーン問題の捉え方を第一義的テクストとして分析を進められているように感じます」という指摘はまったくその通りです。ネット書評など、ミステリ・シーンでよく使われる「後期クイーン的問題」、すなわち僕がこれまでいっていた「後期クイーン的問題」は、法月の論そのものというより、そこで示されている問題点から派生(という言い方はあまり正確ではありませんが、便宜上)したものだと捉えた方がより正確です。この二つは、本格ミステリ形式に起因する問題であるという点は共通するのだけれども、一方は実作での探偵の正しさという点に力点を置き、一方は本格ミステリ作品の構造に力点を置くというずれがあります(これについてはあとで説明します)。

じゃあ、僕がどうして派生した方の「後期クイーン的問題」をこの対談で説明したかといえば、この対談の発端になった『神曲法廷』の分析で僕が想定していたのが、そのような「後期クイーン的問題」だったからです。その評に対して、Ash さんから『TRICK』の例で説明して欲しい、という書き込みがあったので、やはりそのような「後期クイーン的問題」を用いて『TRICK』を分析しました。それ以降の説明も、探偵の役割に注目したときに起きる「後期クイーン的問題」でいいんだろう、と僕の方で勝手に思いこんで、それを疑わないでいたのがそもそもの混乱の始まりだったんだと思います。

こちらの「後期クイーン的問題」は「探偵の立場に立った場合、探偵は真実にたどり着けない」というところに力点を置いているわけですが、そのような立場とAsh さんのねらいとの齟齬をうまく説明できなかったのがさらに混乱に拍車をかけました。Ash さんのねらいと、自分が採用している立場との齟齬というか相性の悪さというのは、No.5 の発言の時点で気がついていたのですが(「これからAsh さんが同じような視点から検証するときには、後期クイーン的問題からはいったん離れた方がよさそうな気がしました」)、このとき、後期クイーン的問題の二つの射程が意識できていれば、「後期クイーン的問題から離れて」のような不用意なことはいわず、もっと的確な説明をして(たとえば、構造に注目して後期クイーン的問題を捉えることもできる、など)、以降の議論をスムースにすることができたのだと思います。

今後は派生型の後期クイーン的問題はメインの話題としては扱わず、法月の「初期クイーン論」に従って分析するという共通理解ができたので(これでAsh さんが保留したいくつかの問題は議論を進めることができると思いますが、どうでしょうか?)、おそらく、このような混乱は起こらないと思いますが、自分のなかでの整理の意味もかねて文章を書いてみました。以下は No.22 の Ash さんの書き込みについてレスしていきます。

「推理の可能性への忘却とは、作品それ自体により要求される必然性故に生じている」
「例えばこのストーリーにおいて宇宙人が恭子を殺したというのは逆にあり得ないと思うのです。でないと、深見の行動やサイ・トレイリング、岡本、小早川など全ての要素が意味を失ってしまいます。TRICKは一応、論理を標榜する立場に立脚したドラマなので、論理の破綻は許しても、論理自体の構築は必ず試みます。
TRICKがバカ・ミスであるならともかく、通りすがりや宇宙人が殺害した、というのはTRICKを見ていく上で全く観点に沿っていないと言わざるを得ません」

順番は前後しますが、話題のつながりを考えてこれについてはじめにレスします。最後の「観点に沿っていない」という部分について誤解を早めに解いておかないといけないとも思いますので。

上の二つのAsh さんの文章についてなのですが、ここにこそ法月の後期クイーン的問題と派生型の後期クイーン的問題と立場の違いがはっきり出ていると僕は見ます。つまり、ここでのAsh さんのような疑問にぶち当たったとき、「探偵は作品世界〈内〉にいるはずなのに、どうして「作品それ自体により要求される必然性」や『TRICK』が「論理を標榜する立場に立脚したドラマ」であるといったような、作品世界〈外〉にあるはずの情報を手に入れることができるのだろう、できないはずだ」と考えるのが派生型の後期クイーン的問題で、それとは別に、論理を標榜する一編のドラマであることを前提として構造を分析していくのが法月の後期クイーン的問題である、と。

この二つのうち、派生型の後期クイーン的問題という立場を取ると、最後の犯人の自白=謎の完結自体を疑わざるをえず(深見の自白、および深見による奈緒子の推理の誘導も疑うことになります)、作品の構造を把握できなくなるという問題点がある、ということは、僕の発言のなかで2度ほど触れました(No.5No.15)(ただ、この時点では派生型、という言い方ができなかったので、非常にわかりにくくなっているのですが……)。とくに No.5 については、「実は犯人の側というのは、後期クイーン的問題という視点に立ったとき、見えなくなってしまうポイントになるんですよね。あれは探偵の推理に焦点が当たるので、犯人の行動というのはいったんカッコのなかに入っちゃうんです。それをAsh さんは指摘されていたのだと思います」と書いて、作品を完結したものと捉えて考えたい Ash さんのような立場から議論するために「後期クイーン的問題からはいったん離れた方がよさそう」と提案しています。

つまり、派生型が孕む問題点というのは僕の方でも前から意識していて、あまつさえそれがAsh さんの観点と相容れないことを指摘していたわけです。ですから、『TRICK』が「論理を標榜する立場に立脚したドラマ」であるという前提に立って(それは作品が完結しているということと密接に関わっているはずです)「TRICKがバカ・ミスであるならともかく、通りすがりや宇宙人が殺害した、というのはTRICKを見ていく上で全く観点に沿っていないと言わざるを得ません」といわれても、僕としてはその通りです、としかいいようがありません。僕が前もって「原理的に、『TRICK』を完結したものとして見る見方ができなくなっちゃうのがこの方法の弱点なんです」といっていたところをもう一度批判されているわけですから。弱点の再確認以上の意味を持っていません。僕はその弱点があるから、別の方法に移行しましょう、といいたかったわけです。僕の説明も悪かったのですが、ちょっとこの点、困惑してしまいました。いや、といっても困惑した以上の意味はないので、誤解が解けたならばレスでは流していただいてかまわないのですが。(なお、「通りすがり」や「宇宙人」というのはあくまでレトリックです。要は奈緒子の推理に穴がある、ということを強調したかっただけなのですが(汗))。

ちなみに探偵の推理にまつわるこの問題は、派生型の観点からすれば、次のように見られるはずです。「TRICKは一応、論理を標榜する立場に立脚したドラマ」なのに、どうして探偵が論理によって推理しないのだろう、これは論理的な謎解きの話ではなかったのか。こちらの観点も、本格ミステリという形式を考えるうえで非常に大きな問題ですし、場合によっては有効に機能する分析方法だと思います。が、今回は堤Dの手法など、作品世界〈外〉の情報も視野に入れた方がおもしろそうな分析ができそうですし、そちらの方が僕とAsh さんの意図にぴったりと合っていますね。以後、これまで僕が採用してきた立場からの「後期クイーン的問題」は封印します。

さてさて、レスを続けます。めちゃイケの例についてなのですが、今後構造から『TRICK』にアプローチするとき、非常によいサンプルになると思います。その意味で、単なるネタにとどまらず、なんども引き合いに出されることになるような気がします。法月の論を確認するうえで重要だと思いますし。

(1)犯人が被害者(死体)のレベルに下降する場合
という部分についてですが、これは「初期クイーン論」ではなく、「一九三二年の傑作群をめぐって」に登場する分類方法です。とはいえ「初期クイーン論」にこの部分の説明がないわけではなく、4節の後半、「バールストン先行法」の説明のあとで、「「被害者―犯人」の逆転、すなわち「図―地反転」という構図の意外性が、本来的にはロジカル・タイピングの混同に由来している[…]」という記述があります。この部分だけでは自己言及性についてAsh さんが「保留」した点を先に進めるには情報不足かもしれませんが……。あ、もしよろしかったら「一九三二年の傑作群をめぐって」のコピーをお送りしますよ。

偽の手がかりのとらえ方の違いについては、根本的には冒頭に書いた「法月の後期クイーン的問題」と「派生型の後期クイーン的問題」の違いに原因があります。前者の立場を取るか、後者の立場を取るかで、「偽の手がかり」が正確には何を意味するか、ということが決まってくると思います。ただ、今後は前者に依拠して議論を進めていくので、「偽の手がかり」という言葉は、法月が使っているのと同じく「犯人が仕組んだトリックとしての偽の手掛かり」という意味で使うことにします。(この点についての検討は興味があるので、僕の方で個人的に継続したいと思います)

最後に、人面タクシーにまつわる堤D手法の分析についてですが、これはかなり有効かつ可能性のある方法だと思いました。Ash さんがしたような方法で分析をしていくと、後期クイーン的問題から離れず、しかも映像としての『TRICK』も分析できるという、僕とAsh さんの希望を両方満たした形で議論できるわけですね。今後はこの路線に僕も乗っかっていこうと思います。これまで混乱はしましたが、その分土台はしっかり作れたと思います。ここからリスタートということでお願いします。

それで、いきなり質問なのですが、「人面タクシーという、作中での犯人の手段に過ぎなかったものが、作中外の視聴者への提示というメタレベルに移行してきている」という現象は、本格ミステリ小説作品でいう叙述トリックと同様のメカニズムを持っていると思います。この点、映像作品である堤Dとの手法と小説とで違いみたいなものがあると面白いと思うのですが、どうでしょうか? 厳密でなくともいいので、なにか現時点でのアイディアがあれば、教えて頂きたいと思います。

一度に大量の文章を書いてきたので、もしかしたらAsh さんの書き込みに対して答えていない点があるかもしれません。そのときはぜひ、遠慮なく指摘してください。では、今日のところはこれで。

▼2003年4月22日(火) Ash さん No.24
改めてこんばんわ。さて、掲示板も変わりちょっとした Intermission になったような気がしますね。そのせいか先週までの毒気が抜けてきたような気が(w。
PCの音源をROLANDに変え、NET MDも遂に購入してしまったので、暫くガーネットクロウのサウンドのことで頭が一杯になりそうです。(「FLYING」やば過ぎ)
お互い、忙しいようですね。時間があるうちに、できることをやっておくとしましょうか。

リスタートということで、ここからどういう展開にもっていくのがいいのか考えましたが、先ずは No.23 へのレスからはじめていきます。
初期クイーン論についての論点のずれですが、やはり!そうだったんですね。ずっと以前から、何かがおかしいとは思っていたのですが、これでようやくすっきりしました。これまで、主にもろやんさんが行われてきた一連の分析については、派生型後期クイーン的問題についての、一つのリソースに成り得るのではないかと思いますので、ここから再度取り上げる必要性は、わたしの方では今のところ感じていません。わたしの方で、派生型について掘り下げたいと思ったときに、再度お願いしたいと思います。

次に、法月型クイーン問題についてですが、TRICKが相応しい題材かどうか、という点も含め、「めちゃイケ的問題」等、自分の中で少しずつですがこの問題の論点の面白さが分かってきたと思います。その点、当初の目的はある程度達せたわけです。ここからは、自分でもテクストを参考に色々な応用を効かせることもできそうですし、後期クイーン的問題については、一旦小休止ということにしてはどうでしょうか。自分から、テクストを一意に定めたいと言っておきながら、申し訳ありません。

今回は、論点のずれを抱えつつも、その所為か逆にエキサイティングな対談ができたと思います。自分で何故だろう?と思いつつ、意見をぶつけさせてもらったのが、逆によかったと思いますね。特に、サイ・トレイラー編については、当初思っても見なかった観点が次々に浮かんできて、非常に有意義だったと思います。
(サイ・トレイラー編については、冒頭の人面タクシー、及び、深見が快楽殺人について語る部分の2点が最も重要なポイントだと理解しています。)
無論、もろやんさんの方で、この話題のこの論点については決着していない、という部分がありましたら、ぜひ続けたいと思うので、仰ってください。

次に、
「つまり、派生型が孕む問題点というのは(中略)要は奈緒子の推理に穴がある、ということを強調したかっただけなのですが(汗))。 」
これについてはこれまでのスレッドを参照して理解しました。ご指摘頂いて、有難うございます。

次に、
「ちなみに探偵の推理にまつわるこの問題は(中略)以後、これまで僕が採用してきた立場からの「後期クイーン的問題」は封印します。」
いや、特に封印される必要性はありません。ただ、どの観点から分析されており、なぜその観点で見る必要があるのか述べて頂ければ問題ありません。

「めちゃイケ的問題」結局、オチはそのままというか、単位餅、入学式体操、きりどう校歌といったネタに落ち着きましたね。まあ面白かったのでよしとします。しかし、えなりかずきは今年受験失敗しても来年頑張るといっているのに比べ、ハマグチェのだらしないこと・・。

次に、
(1)犯人が被害者(死体)のレベルに下降する場合
バールストン・ギャンビットでしたか。確かにその通りですね。
「一九三二年の傑作群をめぐって」ぜひ一読してみたいですね。
メールで送って頂いても宜しいでしょうか?

次に、手掛かりについては
犯人が操作する限り、偽の手掛かり/真の手掛かりというのは、いわゆるレトリック的なもので、本質的には、全ての手掛かりが偽の手掛かりにあたると思います。手掛かりに真という接頭語をつけるのは、非常に違和感があります。それは、虚偽の手掛かりに対する自己言及的な響きを持っているからです。

人面タクシーについて。
これは今対談における一つの成果といってよいでしょう。ここから更に派生パターンを考えることが可能です。例えば、奈緒子たちの推理に限界があると考える時点から、わたしはそもそも疑ってしまいます。というのも、【本当の意味で、我々は誰一人としてTRICKのストーリーを見ていない】からです。我々が見ているのは、堤Dが好き勝手に構築した、TRICKダッシュだからです。ダッシュしか見ていない我々が、なぜTRICKの本質のストーリーについて語れるのでしょうか?奈緒子たちは、TRICKのストーリー中に居ると思われますが、それも堤Dの策略かもしれません。わたしたちは、もしかしたら全然別のものを見せられているかもしれないんですよ。
というわけで、ダッシュの奥に潜む本質へのアプローチをいかにしていくか、という問題が定義できるのでは、と勝手に思っています。

まずは、このあたりで打ち留めです。ご質問へのレスについては別途行いたいと思います。

あと、演出・映像から見るTRICKなど、話題の展開性が残されていますが、サイ・トレイラー編については、正直既に食傷気味です。あれ以上の分析を行うには、さらに資料を紐解いて専門的な解釈が必要になってくるのですが、そこまで行うのは今のわたしでは不可能です。それで、もし良ければTRICKで構わないのですが、別のエピソードに変えて頂けないでしょうか?今後の話題の展開も含め、そのあたりも視野にいれていければと思っています。
エピソードの候補としては、今度はTRICK1で最も好きな「霊能力パントマイム殺人編」ですね。

因みに。
誰も指摘してくれたことがないので自白しますが、わたしのHPタイトル「ONe AHEAD SYSTEM」というのは、TRICK好きが高じてつけたものです。ネタが分かった人は、かなりのマニアですね。


やはりROLANDで聴くガーネットクロウは違いますね。なんなんだろうかこの深さは。

さて、ご質問のありました点ですが、頭がガーネットのまま見ていきたいと思います。ご質問を、引用します。

「人面タクシーという、作中での犯人の手段に過ぎなかったものが、作中外の視聴者への提示というメタレベルに移行してきている」という現象は、本格ミステリ小説作品でいう叙述トリックと同様のメカニズムを持っていると思います。この点、映像作品である堤Dとの手法と小説とで違いみたいなものがあると面白いと思うのですが、どうでしょうか? 厳密でなくともいいので、なにか現時点でのアイディアがあれば、教えて頂きたいと思います。」
叙述トリックでいうと、倒叙やカット・バックなど、様々な手法があると思いますが、ここではストーリーとプロットのことを言われているのだと思います。その意味では - No.5No.24 で挙げました本質とダッシュの問題が思い浮かぶのですが、どうでしょうか。かなりネタ的ではあるんですが。
普遍的なミステリでいうと、もろやんさんの方がお詳しいのではと思います。あと、具体的な作品を例にとっていく方がよさそうではありますね。

わたしがちょっと思うのは、映像と文体で決定的に違うのは、文体においては語りも心理も全て2次元である文体で同じように行われるのに対し、演出は三次元的というか、当然なんですが、立体的なものであるということです。例えば、TRICKの最終話においては、奈緒子の心理が揺れる際、一見何の描写もないのですが、実際にキャメラも小刻みに振動しています。また、ある時は対立する想念を現すために、左向きの人物を画面の端に映し、すぐあと右向きの人物を右端に配置します。これは通常ご法度とされている手法です。また、これも映像にそぐわない広角レンズを使い、画面の端をぼやけさせて臨場感を出すという演出を行っています。 これはストレートな例ですが、例えば堤Dはそのような観念でストーリーからプロットを再構築しているのだと思います。あまり、答えになっていないような気もしますが、まずはこのあたりから広げていきましょうか。

ちょっと先走り気味に続けますが、そういう意味においては、堤Dに限らず、小説と映像の違いは多大な影響を及ぼしていると思いますね。文体によるアクセスというのは、目から大脳に直接働きかける手法です。そこでは、中枢神経を言葉というシノプシスで満たしてしまって、想念の渦を作り上げていくわけですが、映像によるアクセスの場合は、同じように目から入ってきても、より直接的に作用してきます。そこには、人の「作り上げる」(というか人に「作り上げさせる」)効果が薄まってしまう反面、ダイレクトに脳裏にアクセスできる。通常はそのレベルに留まってしまうわけですが、堤Dの場合はそこからさらに、文体への回帰を行ってしまう。先ほどの例で引いた、キャメラの振動というのは、まさにそれで、一旦アクセスした映像をさらに文体的な手法で描写しているということができる。平面的な映像から、さらに立体的な脳裏の世界に昇華させるような手法を採っているのだと思います。これが、堤Dの映像がアーティスティックで、前衛的だと言われる所以じゃないかと、個人的には思います。

▼2003年4月23日(水) もろやん No.25
インターミッション、有効でしたね。気持ちも切り替えられるし、頭の中の見取り図もすっきりしてきました。今後は記事タイトル通り、ぐうたらに、微妙に期間を空けつつ、落ち着いてレスを返していきたいなと思っております。Ash さんのサイトの MIDI、これまで XG 規格で作られてましたよね。だから音源はヤマハなのかな、と思ってたんですが、Roland をゲットしたとのこと。大昔は僕も Roland の音源で遊んでいたんですけれど、いまの最新機種はきっとものすごい能力があるんでしょうね。性能を知ったら隔世の感があるに違いない。久々に物置から音源を出してつなぎたくなってきました。って、パソコン変えたからケーブルから買わなくちゃいけないような……(汗)

さてさて、これまでの対談は、Ash さんもおっしゃるとおり、齟齬はありながらも、そのおかげで逆に有意義なものになったと思います。僕としても、『TRICK』について様々なことを気づかせてもらったし、さらに後期クイーン的問題についても、整理ができました。「90年代における後期クイーン的問題の展開」みたいなものは、いつかやらねばと思っていた仕事だったんですが、この対談で考えたことや書いたことなどで、その目的に向けて助走ができた感じです。あ、これは真の/偽の手がかりについても同じことがいえますね。こちらも個人的に継続して考えていきたいと思っています。今後なにかこのテーマで文章をまとめたら、そのときは Ash さんにもお知らせしますね。

対談で後期クイーン的問題からはちょっと距離をおくということ、了解です。あの問題は、サイ・トレイラー編を分析するのに有効なのかどうか、確かに未知数の部分がありますね。犯人の壮大な自白、という問題があるので。その点では、むしろハマグチェのどっきりの方が、図式に当てはまっている気がします。

しかし、それにしても先週のめちゃイケも笑わせてもらいました。単位餅、欲しいです。必死になって拾います。でも普通気づくよなあ……。ハマグチェ、来年もひっかけられないように注意しないと(笑) って、あそこまでやられたらもう何を信じればいいのかわからなくなっちゃいますか。

法月の「一九三二年の傑作群をめぐって」ですが、これはかなり長い文章なので、メールで送信することは難しいですね。コピーを実際にお送りした方が早いし簡単だと思います。こちらはメールで改めて連絡します。

人面タクシーについての分析は参考になりました。そこから派生する「【本当の意味で、我々は誰一人としてTRICKのストーリーを見ていない】からです」というのもひとつの立場になりうると思います。これを無理矢理に(笑)推理の問題に引きつけていえば、読者が手にする手がかりが、探偵が手にするそれとは必ずしも一致しない、ということですよね。ここはまさに問題だと思います。ただ、この問題はは突き詰めると本格ミステリだけではなくて、最終的にはもっと広く、フィクション全般に関わる大きな問題だと思います。もしかしたらストーリーとプロットという区別自体を改めて定義づけしないといけないところまで行ってしまうような。読者、視聴者にとってみると、普通いわれているストーリーというのは、プロットから逆算して組み立てられているものですよね。その意味で、【本当の意味でのストーリー】は、どんな物語でも直接には手が届かないもののような気がしますから。「別のものを見せられているかもしれない」という想定は、そうするとフィクションの根元的な問題までさかのぼって考えることになるような気がしています。

このような問題は、正直なところちょっと手に負えないのではないかと思っています。「ダッシュの奥に潜む本質へのアプローチ」というよりも、むしろ「もしかしたら本質なんかないのかもしれない」という立場に立って、単純にプロットとストーリーとか、プロットと堤Dの手法の分析からスタートするのが、無難かなとも思います。そんな非常に弱腰なことを考えているんですが、どうでしょうか?

分析対象の変更についてはOKです。霊能力パントマイム編。あれもまた、インパクトのある話でしたよね。使われるトリックもなかなかマニアの心をくすぐるものがありました。ということで、早速レンタルしてきます。

叙述トリックと堤Dの映像手法についてはまた改めて書きますね。ではでは。

▼2003年4月23日(水) Ash さん No.26
サイトのMIDIはXG規格ですが、これは、NOZさんほか、MIDIファイルの作成者様がその規格を使用されていたのだと思います。わたし自身はしょぼいCDラジカセとPC音源、それにYAMAHAのMIDIシーケンサーソフトを使っていましたが、今回はROLANDのスピーカーをつけてヘッドフォンも高価なものに変えたところ驚くほどWMAなどの音源がよくなりました。ただ、VOの声がリズム隊などと同じレベルで聞こえてくるので、サウンドボードも変えたほうがいいのかもしれません。あまり中はいじりたくないんですが・・
まあNet MDを購入したので、メイン音源はMDコンポに落ち着きそうです。

▼2003年4月24日 もろやん No.27
あらためましてレスを続けます。叙述トリックと堤Dの映像手法についてですね。

まずは叙述トリックなんですが、作者が読者に対してのみ仕掛けるトリック、とまずは定義できると思います。別に登場人物たちはその謎を謎とも思っていないんだけれども、作者の書き方によって読者は騙されてしまう、という。時系列が入れ替えられていたり、男性だと思われていた人物が実は女性だったり、といったのが代表的な叙述トリックですね。人面タクシーの場合は、Ash さんも指摘されている通り、このトリックがストーリーのなかでどんな位置づけになるのかはっきり示されているわけではないので、犯人が探偵に仕掛けるトリックでもある可能性もあるのですが(ここは自己言及性と関わってくるポイントですね)、まあ、ひとまずは堤Dからの視聴者への方向性が強いものなので、叙述トリックの一種と考えてもいいのでは、と思っています。

叙述トリックの具体的な作品名については……これはタイトルを出した時点でネタがばれてしまうという難問が(汗) ええと、反転にしておきますね。【時系列型の代表としては、いまヒットしている貫井徳郎『慟哭』が、男女の性別トリックとしては、綾辻行人『迷路館の殺人』が挙げられます

「映像と文体で決定的に違うのは、文体においては語りも心理も全て2次元である文体で同じように行われるのに対し、演出は三次元的というか、当然なんですが、立体的なものであるということです」。この部分は、確認のために僕の言葉で言い換えると、小説の場合は心理描写も情景描写も文章という同一のレベルだけで行われるのに対して、映像は、たとえば心情を表す際も、せりふだったり表情だったりカメラの動きだったり、そういったいろいろなレベルの手法や表現が多層的に使われる、とそういうことですね。

「堤Dの場合はそこからさらに、文体への回帰を行ってしまう。先ほどの例で引いた、キャメラの振動というのは、まさにそれで、一旦アクセスした映像をさらに文体的な手法で描写しているということができる」

ここ、とても面白いし、重要な指摘だと思いました。直接に繋がることかどうかわからないんですけど、僕の堤D作品への印象というか感想を述べると、まず、どうしてこの人の撮った映像は、僕みたいな素人にも特殊なものであることがわかっちゃうんだろ、というのがあったんです。それまで、ドラマを観ても、別に演出家の名前なんか気にしなかったんですが、堤Dのドラマだけはそれがやけに気になってしまったんですね。

これは堤Dの手法がそれまでの映像手法から逸脱していて、前衛的である、ということからももちろん説明できると思うんですが、もっと素朴なレベルで、演出家が演出によって露骨に画面に姿を見せているというか、それをどうしても意識させられる演出になっている、ということもあると思うんです。そして、このこととAsh さんが指摘された堤Dの文体的な手法、文体への回帰というのとは、やはり重なってくるのかな、と。といっても、まだ考え始めたばかりなので、どこがどう繋がってくるのか説明しろ、といわれると難しいのですが(汗)

ONe AHEAD SYSTEM、いままで気づきませんでした。これは「トリック」サントラ盤に収録されている曲のタイトルですね。これも Roland 製スピーカーでいい感じで聴けるんでしょう。ガーネットクロウ、音楽には疎いもので知らなかったんですが、注目して観てみます。

▼2003年4月24日 Ash さん No.28
NET MD ハイファイ・コンポーネントシステムにてガーネットクロウ中毒のASHです。
MDというのは今まで余り聞いたことがなかったのですが、恐ろしく音質が良く、CDと全く変わらないレベルですね。あとは、NET MDでPC経由から落とした場合の音質がどこまで劣化せず保たれるのか。ROLANDプラスサウンド・ブラスターのコンピでも所詮はPC音源なので限界がありますね。ROLAND自体は会社の人から安く購入したUSEDですが、CDラジカセに限界がきたのでPCで聴いていました。

さて、本題に入りますと、プロットと堤Dの手法についてですが、叙述トリックは確かに綾辻作品が先ず思い浮かびますね。わたしはちゅんソフトの「かまいたちの夜」でミステリに目覚めた、典型的な「なんちゃって90年代限定ミステリ読者」で、我孫子武丸ほか、90年代のミステリ作家、さらにそれらの聖典とされるあたりの作家しか読んでいないのですが、それでも綾辻は殆どその印象しかないですね。十角館と時計館なんて、全く同じトリックですしね。霧越はまだましだと思いますけど、確か叙述じゃなかったような気がします。

有名な話ですが、十角館にドラマ化の話が来たとき、綾辻は逆に、いいですけど、どうやって撮るんですか?と聞き返したそうですね。それは一重に十角館が叙述トリックを使っている所為で映像化不可能なのを、製作側が理解できてなかったという、叙述トリックと映像化の相性の悪さを表しているような典型例ですね。
バカ・ミスのなにかだったか、一人称であたしと言ってるやつが実はラストで男だと分かるという。ただそれだけのためにページを費やしているわけなんですが、それでも叙述は叙述なんですね。
そのへんをストレートに映像化に還元すると、ちょっとイクォールになってこないような気がするんですが、どうでしょうか。堤Dは「ミステリ的」な意味では叙述していないような気がします。人面タクシーの例は、意図的にやったのでなく、主題の強調が、深見というメタレベル侵蝕キャラと共鳴し、たまたまそういう効果が産まれただけかもしれません。

次に、この点についてですが、
「小説の場合は心理描写も情景描写も文章という同一のレベルだけで行われるのに対して、映像は、たとえば心情を表す際も、せりふだったり表情だったりカメラの動きだったり、そういったいろいろなレベルの手法や表現が多層的に使われる」
わたしがイメージしていたのは、映像の場合は、手法が重層的なものになるということでなく、単にダイレクトに像が浮かぶということでした。文体では言語野を経由するので直接ダイレクトな像は浮かびませんが、映像は視聴覚系を通るので、ダイレクトに像が浮かぶ、そういうことを指していました。

「堤Dの場合はそこからさらに、文体への回帰を行ってしまう。先ほどの例で引いた、キャメラの振動というのは、まさにそれで、一旦アクセスした映像をさらに文体的な手法で描写しているということができる」
これは、TRICK全作品を見ると、随所にそういう技法が使われていることが見てとれると思います。ただ、TRICK以外でも同じ手法を使っているかというと、そこまで堤Dは一筋縄じゃないようで、上で述べているような方法は恐らく作品毎に違いがあります。ただ、必ずどこかしらに堤Magikのような部分が挿入されているのは間違いありません。

ONe AHEAD SYSTEM、先ずは正解といったところですが、どの回で誰がやっていたトリックであるか即答できればかなりのレベルだと言えるでしょう(w。サントラの曲はかなりかっこいいですね。

ガーネットは、いわゆる実力A ルックスA 知名度Cの典型的なユニットで、音楽性はGIZAサウンドの好き嫌いによって分かれますね。わたしも、GIZAは好きだがBMFのB'ZやZARDは苦手な範疇に入るので。
ただ、今のJPOPシーン且つ女性Voに限るとガーネットクロウに匹敵するサウンドはないと断言できますね。名探偵コ○ンのOPEDソングに採用されているので見ている人には隠れた人気がある、超絶技巧のクリエイター集団です。

多少脱線気味でしたが、レスポンスを続けます。

「まず、どうしてこの人の撮った映像は、僕みたいな素人にも特殊なものであることがわかっちゃうんだろ、というのがあったんです。それまで、ドラマを観ても、別に演出家の名前なんか気にしなかったんですが、堤Dのドラマだけはそれがやけに気になってしまったんですね。」
わたしも金田一少年のドラマを見たのが堤作品のはじめだったかもしれませんが、土9の日テレドラマとしては印象に残っている作品です。それはまあ選択される題材も常に面白いものを選んでいるのかもしれないんですが、9割以上は技法に由来するものではないかと。意外なキャメラ・アングル、あり得ないような形での突然の場面挿入、方言キャラの使用、徹底した美術、ロケーションによる環境整備。あとは貧乳など、シリーズ通して使うネタ。その辺の意識は並の演出家と全く異質なものです。むしろ、正攻法の逆打ちをし続けているような感じすら覚えます。彼はPVも積極的に撮っているのですが、その辺も関係しているのかもしれません。

「これは堤Dの手法がそれまでの映像手法から逸脱していて、前衛的である、ということからももちろん説明できると思うんですが、もっと素朴なレベルで、演出家が演出によって露骨に画面に姿を見せているというか、それをどうしても意識させられる演出になっている、ということもあると思うんです。」
仰りたいことはなんとなくわかります。
TRICKを平面的に撮った時と、堤式に撮られた時では全く違う映像になると思いますが、わたしの感じ方では、空気感と表現したいですね。キャラクタのパーソナリティの描写に異常に力が入っており、そのキャラ性が逆に自然な形で受け入れられるという。これを、普通の人にしてしまうと、土曜ワイドのように余所余所しい世界になってくると思うのです。

プロットの組み立て方法としては、堤式にはごくミステリ的な面もあります。回想場面をグレー反転させ、虚偽の映像を流し、それをうわさ・都市伝説レベルに置きながらも、技法による世界観の徹底さで説得力を持たせて信じ込ませてしまう。しかし、それは空くまで「語り」部分に過ぎず、地・図反転してしまうと、その裏にあった場面が現れてくるような、隠し絵的な見方もできます。好例としてはミラクル三井ですかね。霊能力パントマイムではそれを重層的に使っており、より複雑な構造になっています。

▼2003年4月25日 もろやん No.29
ガーネットクロウがやけに気になってきました。次レンタル店でまとめてCDを借りるときはきっと集めてますね。名探偵コナンに使われているとなればなおさらです。そういえば、今年もコナンの映画を観ないとなあ。TVはあまり観てないんですが(コミックスでストーリーを知っているので)映画はチェックするようにしてるんですよね。しかし、さすがにもう一人で行くのは恥ずかしい……(汗)

さてさて、叙述トリックについてですが、綾辻がそればっかり、というのはまさにその通りだと思います。意外と誤解されることが多いんですけど、Ash さんがおっしゃるとおり綾辻の作品って物理トリックよりも叙述がメインであることが多いんですよね。『鳴風荘事件』とか、ほんの一部を除いてなんらかの叙述トリックが使われてます。ある意味、折原一の次くらいに叙述トリックへの指向が強い作家かもしれません。『どんどん橋、落ちた』みたいなほとんど退廃的(これは誉め言葉です)ともいえるような作品もありますし。ちなみに余談なんですが、『十角館』の映像化については、どこかのサイトで、島に行くサークルをプロレス同好会に変えたら可能かもしれないぞ、なんて冗談を見たことがあります。全員が覆面レスラーの『十角館』。それはそれで観てみたい気が(笑)

ええと、話を戻します。叙述トリックと映像との相性については、映像で再現できるものもあるし、できないものもある、というのが正確かなと思います。映像化できないものは、男女の性別トリックとか、時系列トリックの極端なものなど、謎となる人物とか事物があからさまな形で画面に登場してしまう場合ですね。で、そんなに派手ではないトリックだと、再現できるものもあるかなと。時系列のものでは、たとえば「木更津キャッツアイ」の表/裏の語り方なんかは、一種の叙述トリック的なものとして見ることもできるんじゃないかなと思ってます。これはもちろん、プロットの組み方と深い関わりがあるんですけどね。

今回のサイトレイラー編の叙述の使われ方については、「ミステリ的」な使われ方をしているかどうかといわれると、確かに微妙ですね。それが騙しにどれくらい関係しているのかとか、作中の時系列で実際にはどこにあるのかなどなど、いろんな曖昧な点がありますから。作者から読者のみへ提示される手法という意味では叙述トリックと同じ経路をたどっているんですが、最終的な効果に違いがあるのかな、とそれくらいに考えておいた方がいいかもしれないと思いました。あとから考えてみたんですが、この種のもので一番似ているのは、もしかしたら京極夏彦『姑獲鳥の夏』の冒頭の手記なのかもしれません。これは別に作品のメイントリックに直接関わってくるわけではないんですが、ここだけ意図的に作者によって先に提示されているんですね。その微妙な使われ方が似ているなと。

「わたしがイメージしていたのは、映像の場合は、手法が重層的なものになるということでなく、単にダイレクトに像が浮かぶということでした」。
なるほどなるほど。手法ではなく、受け手の方をメインに捉えるんですね。直後にカメラの動きなどの説明が入っていたので読み違えてしまいました(汗) とすると、「一旦アクセスした映像をさらに文体的な手法で描写しているということができる」というのは、ダイレクトに視聴者の脳裏に浮かぶ映像が、堤Dの演出技法のうちでは、ダイレクトに浮かびにくくなる、という側面もあると考えていいのでしょうか。もしかしたらこれ、堤演出を捉える上でポイントになるかもしれません。Ash さんの「正攻法の逆うち」や僕の「演出家が画面に出てくる感じ」とも繋がってくる問題だと思いました。

「キャラクタのパーソナリティの描写に異常に力が入っており、そのキャラ性が逆に自然な形で受け入れられるという」
「技法による世界観の徹底さで説得力を持たせて信じ込ませてしまう」
この指摘も興味深いですね。大塚英志『キャラクター小説の作り方』などの議論とリンクしそうです。堤Dの演出って、ミステリみたいな非日常的なもの、あるいは大塚がいうところのまんがやアニメ的なものと相性がいいような気がしていました(実際、大塚も堤Dについて言及していたりします)。いわゆる現実的である、みたいな意味でのリアリズムとは全然違いますよね。たとえば堤Dが松本清張的なリアリズムを前面に押し出したミステリを撮ったら……というのはあまり想像が出来ません。それは絶対に違う物になってしまうような。そういった意味で、堤Dの手法というのは、これまでのリアリズムから逸脱しまくっていて、だから90年代のミステリやアニメみたいなものととてもよくマッチするのかな、と思いました。Ash さんがいう「空気感」というのも、おそらくはそのようなことも含められていると想像するのですが、どうでしょうか。

▼2003年4月25日 Ash さん No.30
こんばんわ。メールを有難うございます。

コナンは確かに一人ではちょっと恥ずかしいですね(w。
実は、19:30というあの時間帯は、GIZA Studio が買い取っているらしく、倉木、ガーネット、といったGIZAの精鋭部隊の新曲が必ずアップされます。映画版も倉木のタイムアフタータイムですしね。
ガーネットも悪くないですが、GIZA内で様々なヴァリエーションがあるので、壮大なサウンド構築実験自体に付き合うような感覚ですね。

鳴風荘は、物理的トリックメイン、それに意外な動機というかホモネタをかませ犬に、みたいな話でしたね。確かに読後の印象はいつもの綾辻らしくないと思いました。
プロレス版十角館、しかも全員サスケ、ライガー状態。受けました(w。

レスができそうなネタからしておきます。
「ダイレクトに視聴者の脳裏に浮かぶ映像が、堤Dの演出技法のうちでは、ダイレクトに浮かびにくくなる、という側面もあると考えていいのでしょうか」
これは、脳裏に映写された像から直感的に場を感じ取る人の視覚システムを計算に入れた上で、それを前提にサブリミナル的に別の場を浮かべさせてしまう、と言い換えてもよいかもしれません。その意味ではちょっと堤Dの手法はサブリミナル的ではありますね。潜在意識に働きかけるというか。

「いわゆる現実的である、みたいな意味でのリアリズムとは全然違いますよね」
「90年代のミステリやアニメみたいなものととてもよくマッチする」
そうですね。通常のリアリズムではないと思います。非常に90年代アニメ、ミステリ的な作風ではありますね。空気感は、そういうイメージで捉えてよいと思います。
ただ、堤D自体はそのへんには完全に無頓着だと思います。サブカルには詳しいかもしれませんが、いわゆる何かのマニアな類ではないと思います。犬山犬子とバンドやってたりするし。

叙述については仰る通りですね。まあできるやつもあればできないやつもあるでしょう。木更津は、クドカンということで、レンタルに手がかかったことが何度もあるんですが、あとひと押しがなく。ネタに絡んできそうなので今度借りてみたいと思います。IWGPもそれに近いですかね。殺人事件のナゾ、ヒロインの変貌、俯瞰するメタ刑事など、ミステリーミステリーしてるなあ、と思いながら見てました。

京極は、全く未読なのですが、今度読むときは注意して読んでみたいですね。サイ・トレイラーについては、もうアイデアが尽きてしまったのか、何も沸いてきません。このへんで、何か一つ作品を主題に据えて派生させていった方が発見があるような気がするのですが、どうでしょうか。ちょっと、ネタが散発的且つ観念論めいてきているので。では。

▼2003年4月26日 もろやん No.31
GIZAは倉木麻衣が所属しているレーベルでしたか。音楽には疎いもので、誰がどこにいるやら、さっぱりで……(汗)コナンの主題歌は、ザードにB’zに倉木と、わりとメジャーな歌手がやってますよね。ガーネットクロウも、そうするとそろそろブレイク、という感じでしょうかなんでしょうか。

堤Dの映像がサブリミナル的である、というのはわかる気がしますね。サブリミナル的にやっている演出と、わざと気づかせて混乱させる演出とが、混在している感じといいますか。今後具体的な映像を分析するにあたっては、まだおおざっぱではありますが、こういった補助線は使っていけるんじゃないかと思ってます。

僕もやはり堤Dはオタクとかマニアではないと思うんですよ。『堤っ!』を読んでみても、特別オタクな感じはしませんでしたし。でも、彼が出す空気感は、ものすごく現在のオタク系文化っぽいんですよね。僕としては逆にそれが面白い現象だなあ、と感じています。いったいその空気感というのはどこからやってきたんだろうと。サブカルに詳しいということもあるとは思うのですが、もしかしたらそれ以外の要因があるのかな、なんて、想像……ではなく妄想(笑)していたりします。

『木更津キャッツアイ』は、『ケイゾク』や『TRICK』などの主要スタッフが再結集して作っていたようです。堤Dはいないのですが、細かいところで堤的な演出があったりして面白いです。堤Dほどは掟破りはしないのですが、共通する空気感がありますね。クドカンの脚本も面白いですし、全体的に見てよくできたドラマだと思いました。

具体的な作品の分析に入っていこうという提案、OKです。対象は霊能力パントマイム編ですね。この話、双子のトリックとか、僕からみると美味しいネタがたくさんあるんですよ。で、僕がやっちゃうと前回みたいに後期クイーン的な方向へいっちゃいそうなので(双子のトリックはあまりにど真ん中です(汗))、まずは Ash さんの方から、映像や堤Dの演出について、思ったことを書いて頂けないでしょうか。それを土台にして話を広げていければと思っています。

▼2003年4月27日 Ash さん No.32
こんばんわ。
GIZA についてですが、簡単に説明すると、Being の関西限定レーベルで、倉木麻衣、愛内里菜、ガーネットクロウ、小松未歩、上原あずみ、the★tambourines、rumania montevideo などが所属する新興勢力です。今の音楽業界は、大きく、トランス系の音を得意とする avex tracs と、Being が二分する勢力図といってよいでしょう。B'z や ZARD は BMF の旗手として業界を引っ張ってきましたが、WANDS や T-BOLAN、DEEN 等数多くの現れては消えといった状態を繰返し、個性の確立という点において GIZA も伝統的にその弊害を引きずっていますが、これは次に挙げるようにアレンジの手法に原因があると考えられます。
手法としては BMF で抱えているサウンド・アレンジャーにサウンド構築を任せ、ユニット、アーティストに作詞、時には作曲のみ任せるというスタイルを取っています。ガーネットの強みは、ユニットメンバに GIZA トップアレンジャーを組みこんでいるところといえるでしょう。
地上派に余り露出しないため、勢いアニメや番組のOPEDがマーケットの中心となりますが、最近はTV・ライブへの露出も解禁されてきたようです。アーティスト個人というより、レーベル単位での動きを考える必要があります。ガーネットも例に漏れず、レーベル単位から JPOP に踊り出るほどの力はありませんが、目指す極点とすれば JROCK 代表の B'z でしょうね。ルックス・音楽性は、十分に素質があるので、あとはマーケティング次第というところでしょう。

クドカンは、TR で見ましたが、堤Dと似ている個性でした。いわゆる堤組のようなクドカン組を抱えていて、変なバンドを組んでるし、面白い人ですね。友達にいると退屈しないで済みそうです。

霊能力パントマイム編で行きますか。ただ、一つ問題があるんですが、これって堤Dの演出でしたっけ?確か、TRICKは堤演出は最初の2~3話とラストのみだったと記憶しています。無論下地はあると思いますが、厳密に堤演出作品というと微妙なような気が。TRICK1としてはヌルさも含め、非常にスタイリッシュな作風で好きなんですけどね。難があったら、他の作品でも構わないんですが、どうしましょうか。
「chinese dinner」は全国公開の溺れる魚の前に出たのですが、逆になんで全国公開しなかったの?といわれるほどの名作ですが、(溺れる魚がダメ過ぎたというのもありますがw)以外に評論が少なく、ファンとしては寂しい気がします。折角の対談企画ですし、ここで一つ取り上げておくと、対談の目玉になってくれるかもしれませんね。

追記します。
今、スレの流れとしては、
作品の選定段階と、観点の洗出しというような段階を迎えていますが、これという作品に絞り込むのはお互い候補作品を出して行った方が、作品の観点もより強調され見ていきやすいと思うのですが、どうでしょうか。たとえば、わたしは、chinese dinner、もろやんさんは木更津キャッツアイを紹介していますが、そういった形で作品を選定していくと、その段階で新しい観点を見出せるかもしれません。
例)
作品名:どのへんが見処か?
・chinese dinner:堤幸彦演出作品。ヤクザと殺し屋のギリギリの攻防が、dead or aliveの臨界点にも接触する、数少ない作品である。
非常に独創的な二人芝居でもあり、密室で展開される虚虚実実の駆け引きは三谷幸喜作品をも彷彿とさせる。

例2)
・ラブコンプレックス:
フジTV系列。反町隆史、唐沢寿明、木村佳乃ほか出演。
2000年のドラマ群を締めくくった超絶的メタ・ドラマ。 嵐のように繰り出されるテクストの引用は、果たしてキッチュかガジェットか。ぐらぐらと眩暈を生じさせるその手法は中井英夫『虚無への供物』を彷彿とさせる。かなり言い過ぎだが、はっきりいってそのレベルの比喩をする価値は多いにあると見た。誰かこのドラマの構造解説してくれえ~。

▼2003年4月28日 もろやん No.33
GIZA には知っている名前が結構いますね。歌手は知っていても、レーベルは全然知らないので、あのアーティストとこのアーティストが一緒のレーベルなんだ~、なんて発見があります。音楽のマーケティングは最近はなかなか難しくなっているようですが、アニメの主題歌などの露出は大切ですよね。というか自分が3年くらい前からほとんどCDを買わなくなってしまった人間なので、それが実感できるんですけど、やはりCMで使われてるとか何かの主題歌になっている、というと聞く回数が格段に増えますからね。それがいい曲であれば、CDを探したりもしますし。GIZA、注目していきます。

霊能力パントマイム編は、レンタルして確かめてみたら、堤Dの演出ではありませんでした(汗) どうしましょうか、これ? しかし演出的にはやはり堤Dの特徴があるので、堤D「的」なもの、あるいは先鋭的な演出技術、というくくりであれば、扱ってもよい題材だと思います。Ash さんも高く評価してらっしゃるようですし、僕としてもミステリの話ができるので興味あるかな、と。

「チャイニーズ・ディナー」は『堤っ』を読んだときから気になっていた作品でした。概要だけでも面白そうですよね~。Ash さんの解説でさらに観たくなっちゃったりしてるんですが(笑) これはとにかく、観てみます。まだ借りてきてないので扱うかどうかということはいえないんですけども、興味はとてもあります。

「ラブ・コンプレックス」は、はっきりいってこれまで全然興味がなかったんですよ。普通の恋愛ものなのかな、と。でも『虚無への供物』まで引かれてしまうとなると……手を出さざるを得ませんって。全部で10時間くらいですか。うう、また観たいリストが増えてしまった。

いや、もう、どれも観たいんですよ、ほんとに。でもこれから対談で扱うとなると、ひとつかふたつ、選ばないといけないですよね……迷う(汗) これまでの流れで行くと、やはり第一候補は霊能力パントマイム編でしょうか。もちろん、他のものにも興味があるので、いずれはそちらについても話をしてみたいとは思うのですが、いかんせん鑑賞に時間がかかりそうなので。それはAsh さんが「木更津キャッツアイ」を観る場合でも同じですよね。

ということで、霊能力パントマイム編を第一候補、それで、これについて話している間に、「チャイニーズ・ディナー」や「木更津キャッツアイ」などなど、それぞれが関連のものを観ていく、という作戦はどうでしょうか。

▼2003年4月29日 Ash さん No.34
他のメディアと同じく、音楽業界も常にマーケティング在りきで動いています。例えば、4月-5月はGIZAレーベルがリリース攻勢をかけている時期ですが、これもある程度、B'zの11曲連続オリコン独占と関連付けて見る必要があるでしょうね。なぜ、B'zのリリース時期を敢えて外した4月末から5月頭にかけて一斉にリリースアウトさせているのか。
そうやって裏を取っていくと、実は非常に面白い分野です。また、GIZA内でのアーティスト同士の関連性等もこれは曲単位に見ていくと、色々と見えてくるものがある。そういうわけでGIZAには楽しませてもらえる要素が多いんですね。わたしはQAめいた仕事をしてますが、
そのへんからも観点として参考になる部分が多いです。
ところで、CDを全く買われていないということですが、わたしは音楽なしではちょっと辛いですね。本を見るのも、全てヘッドフォンが欠かせません。会社は全く音無しの空間なので、家に居る時に音楽をがんがんにかけると非常に癒されますね。人間、無音無声無色の生活を続けると3日で発狂するというデータがあるとのこと(w。

まあ冗談とも本気ともつかない話はさておき。
霊能力パントマイム編はやはり堤Dの演出ではないようでしたね。このへんTRICKの変なところで、ケイゾクは全て演出しておきながら、TRICKは最初と最後だけ摘み食いするという。とまれ、本家のビッグマザー編以上に非常に堤色が強いのは確かでしょうね。超絶的カメラ・ワーク、高度なミス・ディレクション、ヅラ、牛乳、奈緒子、上田、選挙、カメレース、哲さん!ありがとう!!、、、挙げていったらキリがない(w。そういう意味で好きなのですが、対談で取り上げるようなネタかどうかはまた別問題かもしれませんね。

チャイニーズ・ディナー。(以下C・D)わたしは「堤っ」という本は読んでないと思うのですが、やはり取り上げられていましたか。堤Dが世界に通用すると思える作品ですね。堤嗜好を称するなら絶対に外せない作品だと断言してよいでしょう。わたしは2、3回くらい見たと思います。

ラブ・コンプレックスは、フジでリアルタイムに放映していた時に見ていないと、多分レンタルしてまで見る人は少数派でしょうが、わたしは運よくというかTV版で見ました。普通のレンタルに並んでいると題からしても明らかにラブストーリーなのですが、内実は全く違います。テクストをクロスリンク的に引用する、どうしようもなく自己言及的で内部破裂的なドラマです。ストーリーは壊すためだけに存在しています。わたしが思いつく類似例は、裸足のピクニックくらいですね。このドラマの価値は、これを22時木曜フジという枠でトレンディ俳優を使ってやってしまったというところにあると分析しています。多分、2度とあり得ないでしょう(w。しかし、映像的にも中々見れます。2000年度の作品ですが、その年の最も印象的なドラマでした。(2位はTRICK(w。 )どうしてもこのドラマの構造が知りたいと思い書評を当たりましたが、誰も分析してなかったようで。

ドラマの話題でいうと、その年は当たり年で、さらに六番目の小夜子という恩田陸の作品もドラマ化。これは鈴木杏、松本まりかなどのキャストもよく、また原作を上回る脚本で、非常に不思議なドラマでした。

もろやんさんはC・D、わたしの方は木更津を見るという展開でいきましょうか?尤も、C・Dは2時間程度なので、視聴に時間はかからないと思いますよ。

p>▼2003年4月30日 もろやん No.35
CDを買わないといっても、レンタルしたりダビング(って最近聞かないな(汗))したりはするので、全然聴かないわけではないですよ、もちろん。ただ、何かするときは音楽はかけませんね。集中できなくなってしまう性質ですから。音楽をかけながらゲームをすると、圧倒的に弱くなるということもよくいわれます(笑)

音楽の話題で思い出しましたが、堤演出では音楽や効果音というのもかなり重要ですよね。もっともマンガ・アニメ的雰囲気を醸し出しているのは効果音なんじゃないかという印象があります。これも今後、僕が気をつけて観ていきたいと点ですね。

さてさて、次なるターゲットは、僕が「チャイニーズ・ディナー」、Ash さんが「木更津キャッツアイ」ですね。了解しました。さっそくレンタルしてきます。あ、でも霊能力パントマイム編はどうしたらいいでしょう? やはり堤Dの演出ではないと問題でしょうか? 個人的には「具体的にはどのシーンにどんな超絶カメラワークが使われているのか」とか、もっと素朴に「どの辺の映像手法がAsh さんの興味を惹いたのか」などなど、お話を聞いてみたいと思っています。自分としても改めて鑑賞してみて面白かったですし。ただ、もちろんAsh さんがやはり別の題材の方がよいのでは、というのであれば、そちらでも全然かまいませんよ。そのときはこのエピソードについては、対談ではなく、エッセイかなにかで個人的に考えていくことにしたいと思います。

▼2003年5月1日 Ash さん No.36
そうですね。効果的にSEを使っている、或いは『使っていない』ことが演出上の特色となるだろうと思います。例を引くのは中々難しいんですが、わたしが昨日見たフレンチ映画の「スズメバチ」。特殊部隊の女隊長、マフィアの私兵、偶然居合わせた工場襲撃犯の三つ巴の銃撃戦を描いた作品ですが、殆どBGMやSEらしい音がなく、兆弾の反射音と静寂の繰返しが終始画面を支配する。これが、抜群に怖い。音楽が『ない』ことが映像においていかに重要な役割を果たしているかを認識することができます。 同じ銃撃戦シーンでもMatrixなんかだとパンキッシュなSEが流されるであろうところなんですけど、そのへんがリアルさを醸し出していて巧いなと思いました。
またはこれはよく知られているショムニ。あのドラマのテーマは痛快OL行進曲みたいなもので、その所為かマーチ的な進軍曲が場面展開に合わせてふんだんに使用されています。庶務2課が一種の軍隊なので、ある種戦争映画みたいな演出を意図したものだと思います。
ただ、このへんは別に堤演出に限ったことではなく、画面編集工程ですかね。まあそのへんトータル込みで一般的には演出と呼ばれているんでしょうけど。

霊能力パントマイムは感想を述べるところからはじめますか。もろやんさんは見終わったばかりで色んな感想を抱かれたところだと思いますので、わたしがそれに意見を言わせてもらうという形にしたいと思いますがどうですか。ちょっと、わたしから提言する展開が多過ぎるので。

木更津は、ちょっと見れる時間が取れるかどうか分かりません。GWも多分出勤なので。が、近いうちにちょっとずつでも見ていきたいと思います。

▼2003年5月1日 もろやん No.37
GWも出勤されるとのこと、お疲れ様です。前にもいいましたけど、対談の方は負担にならない範囲でやってくださいね。長く続けるにはまったりやるのがいいと思いますので。あ、もちろん「木更津」も時間がかかってもいいですよ。

「スズメバチ」という映画、観てみたいです。やはり「トリック」は、マンガ的な効果音が入って世界観が出る感じがするので、それを逆に考える意味でも興味深い映画だと思いました。昨日「チャイニーズ・ディナー」を観たんですけど、やはりこれも音楽や効果音がかなり抑えられていましたね。「トリック」の派手な(?)演出ばかりに慣れていると、一瞬、監督が堤だとは気づかないかもしれません。カメラワークなどはやはり、堤的だと思ったのですが、一番違うのは音かな、と感じました。

その『チャイニーズ・ディナー』なんですが、いやはや、面白かったです。密室劇としては最高レベルの映画だと思いました。なにより、ギバちゃんの推理に惚れましたね。イザムの不気味さもよかったですし。いい映画を紹介していただきました。

霊能力パントマイム編について僕から先に意見を、ということ、OKです。実は前回サイトレイラー編で後期クイーン的問題について、僕が自分の観点からしゃべりすぎてしまったかな、という反省があったので、今回はAsh さんの意見をお聞きしていきたいと思っていました(提言する機会が多すぎる、と思われてしまったことは僕の考えが裏目にでたせいです。すみません)。でも、ある程度これまでの流れでAsh さんの興味関心の在処がわかってきたように思いますので、僕からはそれに沿う形で意見をいっていきますね。

霊能力パントマイム編を見なおして面白いなと思ったのは、牛乳の扱い方でした。どうやら雪印の牛乳が解禁になった日に撮影が始められたので(笑)、それで急遽、みんなで飲もう、ということになったらしいのですが(やむ落ちチェックでそういってました)、このアドリブの小道具が最終的に、作品の内容と関わってくるのが新鮮でした。

はじめのうち、上田や奈緒子が飲む牛乳は、例によって単なるネタかと思っていたんですけど、徐々に徐々に実は意味のある小道具だったのだ、ということが判明するようになっているように見えました。この一編では、画面に白と赤が強調されて登場しますよね。上田の秘密基地にある看板は白地に赤の文字だし、美幸の服は白で、そこに赤い血が盛大に飛び散ったりします。しかも、そのシーンでは、蛍光灯がおかしくなって、画面全体が白っぽくなるという演出が。さらにさらに、血まみれになった美幸のために奈緒子が持ってくる服も白と赤のツートーン(やむ落ちではこの服について美幸がコメントするシーンが入ってました)。そんな白と赤のコントラストのなかで、白い液体である牛乳が随所に登場するんですよね。それで、この白と赤の氾濫はなんなんだ~、と思っていたら、ラストで美幸が一言。

「あなたが求めている真実が、必ずしも白く正しいとは限らない」

そしていままで彼女が決して手にしなかった牛乳をごくごく飲み干し、「ごちそうさま」と去っていくんですね。僕はそのときになって、ああ、なるほど、白は真実を見つける側の色なんだ、と気づきました。で、逆に赤は犯人の色なんだな、と。白い牛乳を犯人である美幸が飲むことは、話の筋を素直に読むと、犯人の勝利を象徴しているのかもしれないなあ、と思ったんです。

このように、現場のアドリブで用いられた小道具が、話の根幹に関わってきてしまうというのは、堤式演出ならではのことなのではないでしょうか。いや、もしかしたら他にもこういうことがあるのかもしれませんが、他の演出方法からすると、堤式の柔軟性がよく示された例だと思いました。霊能力パントマイム編について、僕が一番面白いと思ったのはこの点でした。Ash さんの方から、ここはこうも考えられる、とか、ここはこういう演出の方法が使われていたとか、なにか意見を聞かせて頂ければと思います。

▼2003年5月2日 Ash さん No.38
C・Dは唯一、イザムが金城あたりならもっとよかったんじゃないか、と言われていますが、あの頃丁度堤Dが離婚直後のイザムを重用し、C・Dに出したところいい演技をするので溺れる魚にも起用したという話です。柳葉というと勿体つけた演技が鼻につくことが多いんですが、C・Dに限ってはそのオーバーさが逆に嵌り役でしたね。 相手役も、まあ金城もリターナーってどうよ?とか思うので、結局はイザムでよかったんじゃないかと思います。

霊能力パントマイム編略して霊P編としますが、白と赤の分析、お見事です。付け加えると黒ですかね。一言でいうと黒が赤に染まり白を飲み干した話です。
このストーリーはもろやんさんの色の視点を始め、実に色んな観点から分析することが可能です。
絞殺による第一の被害者がうめきかずおと設定されるなど、ネーミングについてもかなりやけくそというか。一つ間違えると某ホラーの巨匠に(w。(「うめきかずお」について、のちにAsh さんから訂正が入りました。正しくは「梅木隆一」だそうです――もろやん注)

わたしは、リアルタイムで霊P編が放映されていた頃、自サイトでこの話のプロットを分析していました。それを読み返すと、随所に話中では未解決となっている数多くの疑問点が残されているんですが、ただこれを書いてしまうと本題とは余り関係なくなってしまうんですよね。
まあはっきり言ってしまえば推理と展開はかなり偶然性が支配しており、アメリカの3W推理小説のようですが、それがこの話の不可思議性を逆に高める効果になっている。放映後、非常にうすら寒い感覚に囚われてしまったことが思い出されます。この感覚、既にミステリというよりホラーと考えてもいいでしょうね。道理で佐伯日菜子を使っているわけだ。

某WEBサイトでは、霊P編において例えば次のような検証が行われていました。
『矢部は何時ナイトメアを見たのか?』
まあこれだけとっても、遊べるポイントがたくさんあるエピソードだと言えますね。
因みに答えは意外に難しいです。

肝心な部分のレスが漏れていましたね。

「このように、現場のアドリブで用いられた小道具が、話の根幹に関わってきてしまうというのは、堤式演出ならではのことなのではないでしょうか。」
IWGPスープの回においても川崎麻世とマヨネーズのネタが終始支配していたことを考えると、現場のロケハンでブレーンストーミング的にアイデアを出していって結果的に話の中核に昇華するというのは確かに彼の大きな特徴と言えるような気がしますね。現場に着くまではきっちり決めておかず、どんどん変更を入れていくようなのですが、このへんも演出家により、決め打ちをするタイプと、アドリブ重視の2派があるようで堤監督は後者に属するということなのでしょう。現場では役者からも演技や演出に関してアプローチが出る筈なので、決め打ちする方が逆に難しい気もします。これは先日の情熱大陸で大杉漣を取り上げていた時に、素人監督に物申す的に大杉がアイデアを出していき、脚本もどんどん変わっていったのを見てそう感じました。

「ここはこうも考えられる、とか、ここはこういう演出の方法が使われていたとか、なにか意見を聞かせて頂ければと思います。」 プロットだけは詳細に見ていたんですが、やはり演出については分野外のことであり難しいですね。サイ・トレイラー編と同じ方式を採っていただければ、もろやんさんによる双子のトリックの解説やわたしのプロット分析も活かせるのではないかと思います。如何せん演出に限るとどうしても普通の感想に落ち着いてしまいそうで。観点を変えてみてはどうでしょうか。そこから演出にフィードバックさせることもできなくはなさそうですが。

▼2003年5月5日 もろやん No.39
矢部はいつナイトメアを見たのか。サイトを探して読んできました。実は彼らはかなり緻密なスケジュールで動いていたんですね(笑)意外に働いてるじゃないか、矢部。

「チャイニーズ・ディナー」の殺し屋役が金城ですか(汗) 僕としてもやはりイザムでよかったような。彼は内面が読めなそうなのが怖いと思ったんですよ。イザムは出で立ちからして不気味ですし、はまっていたと思いました。ギバちゃんの演技は、せっぱ詰まった感が出ていましたね。頭が切れそうなんだけれども、微妙に情けないといいますか。余裕を見せつつも実は追いつめられているという演技。よかったです。

霊P編の牛乳分析(笑)、気に入って頂けたようでなによりです。ネタが単なるネタじゃないというあの仕掛けは、『トリック』のなかではかなり気に入っているやり方でした。他にもあるのかなあ、などと探したくなってしまったり。同様の仕掛けというのは、大塚英志によれば、『木更津キャッツアイ』にも見いだせるそうです(『キャラクター小説の作り方』p243~257)。ただ、僕としては大塚の見方はちょっと乱暴かなと思わなくもないのですが……。それから、はじめから脚本に仕掛けられたネタと、現場で採用されたネタを区別していないというのも、堤式の演出を考えるうえでは不備になるかな、と。Ash さんがおっしゃっている大杉漣の例もありますし、もっと現場の要素までも含めて見ていかないといけないのかもしれないと思いました。

閑話休題。Ash さんによれば、霊P編では白と赤だけではなくて、黒も重要な色であるとのこと。よろしかったらもう少し説明していただけないでしょうか。とても興味があります。

霊P編をサイトレイラー編と同じように見たら、ということですが、これがもう、Ash さんがご自分のサイトで指摘されているように、穴だらけなんですよ。最後の解決でさえ、実は偶然性に頼りすぎていて納得できないという(汗) そういった意味では、あれはあまり派生型の後期クイーン的問題にふさわしい題材ではないかもしれません。ですから僕も、ホラーとして考えた方が素直かなと。「うめきかずお」のネーミングも密かにホラーを宣言していますし。

それから、『トリック1』の段階では、超能力者が存在するかどうか、という問題がいつも曖昧なままで提示されていたように思います。ですから、この話をはじめて観たときには、果たしてこの謎は論理的に解けるんだろうか、と疑問を持たされたまま鑑賞した記憶があるんですね。細かいことをいえば、美幸が殺人パントマイムをするシーンで、どうして蛍光灯が白くなったのか、とか、どうしてあんなに大量の血が吹き出したのか(いくらなんでもあの量はトリックでは無理でしょう(笑))、とか、必ずしも説明が付いていない要素はたくさんあります。また、美幸が血まみれになったときの表情や肌の色の撮り方を観ると、『リング』の貞子などなど、ほとんどジャパネスク・ホラーの方法に近いですよね。そういった点でも、やはりこの話はホラーとしてのテーマの方を重視しているのかな、と感じました。

双子のトリックは、確かに薄ら寒さを感じさせるのに非常に効果的でしたね。これもホラーに奉仕していると考えることもできると思います。このトリックの根本は、やはり外側から観た場合二人のアイデンティティが一緒なので、どちらが犯行をしたのかわからないという点にあると思います。AがやったかBがやったかで、事件の様相が騙し絵みたいに変わってくるというときの混乱といいますか。また、その犯罪が法律では十全に裁けないという点も、双子のトリックが導き出す薄ら寒さだといえると思います。特に三番目の殺人については、アイデンティティが同一なので、姉が殺したのか妹が殺したのか判断が付かなくなってしまっています。自白ですらも疑えちゃうような状態を出現させるのに、双子のトリックが有効に使われていたな、と(この点は後期クイーン的になっていると思います)。

それから血の繋がった肉親というか、ほとんどもう一人の自分であるはずの妹を、姉が自分の利益のためにいともあっさりと見捨てるという怖さもありますよね。哲この部屋に登場していた双子とは正反対です。双子の犯人という設定は、そこでも怖さを導き出す軸になっているように思いました。

と、ホラーの薄ら寒さと双子のトリックについて、少し考えてみましたが、すみません、まだあまり整理できているという感じではないですね(汗) Ash さんの意見を参考にしつつ、もうすこし考えていきたいと思います。

▼2003年5月4日 Ash さん No.40
黒は名前から由来、黒坂美幸の黒ですね。イメージ的にも魔女という感じじゃないでしょうか。

超能力者が存在するかどうかという命題の提示は、TRICK1で一応決着が着いた感じですが、映画等の展開を残すためにわざと解決していなかったんだと思います。いや、解決させるネタというより、超能力を否定する奈緒子自身が実は超能力者ではないのかというアンチテーゼを常に抱えている不安定さを話の軸となっているということが言えるんじゃないでしょうか。相手の「超能力者」についても、いんちきなんだけど死ぬ間際に本物がいると言わせることで、論理的な解決後の非日常への暗転、という効果を狙ったものじゃないかと思えますね。

うちのサイトを見て頂いたということで。双子は奈緒子も言っているとおり陳腐なネタですが、もろやんさん指摘のとおりこの回ではホラーを標榜しているために効果がありましたね。

▼2003年5月6日 Ash さん No.41
失礼。一部発言に間違いがありましたので訂正します。
ケイゾクは全話堤演出作品でなく、TRICKのように何話かの演出となっておりました。尤も、最初と最後だけはかじるという手法は共通しているようです。

第1話 死者からの電話    演出:堤幸彦
第2話 氷の死刑台      演出:堤幸彦
第3話 盗聴された殺人    演出:金子文紀
第4話 泊まると必ず死ぬ部屋 演出:堤幸彦
第5話 未来が見える男    演出:伊佐野英樹
第6話 史上最悪の爆弾魔   演出:伊佐野英樹
第7話 死を呼ぶ呪いの油絵  演出:金子文紀
第8話 さらば!愛しき殺人鬼 演出:堤幸彦
第9話 過去は未来に復讐する 演出:今井夏木
第10話 二つの眼球      演出:堤幸彦
第11話 死の味のキス     演出:堤幸彦
特別編 死を契約する呪いの樹 演出:堤幸彦
映画 ~Beautiful Dreamer~ 監督:堤幸彦

▼2003年5月6日 もろやん No.42
なるほどなるほど、名前が黒でしたか。そしてイメージ的にも確かに魔女ですね。それが白い服を着て、血まみれになると。彼女が作中で様々な位置に立っているように、色もそれにあわせて様々あるんですね。なんかものすごく納得してしまいました。

超能力ネタは、2では突然ナリを潜めてしまって、どうしたのかな、と思った記憶があります。前作から引っ張ってもよかったのに、最終的にはほとんどネタにされてしまったという(笑) ただ1と2を比べるときに、「本物の超能力者」の扱い方というのは大切ですよね。僕も1の頃は、それで足下が不安定な感じというか、不思議な感覚を覚えた記憶がありますから。それがAsh さんがいう非日常への暗転なんだと思いました。

双子のトリックが暴露されるシーンは、最高に笑えました。奈緒子自身も全然自信なさげだし。あれは描き方によってはひとつの山場にもなるシーンだと思ったんですが、『トリック』はそこを逆にギャグに持って行きましたね。でもそのギャグも、最後には苦い結末になるという。あの話は、ミステリマニアにはおなじみのトラックのトリックをダミーに使うところといい、本格の王道を逆手に取る仕掛けが非常に多いように思いました。ミステリかと思わせておいて、ホラー的になっていくというのも、そのなかで重要な役割を担ってますね。

ケイゾクの演出、僕も全部堤Dだと思ってました(汗) 実際は結構別の人がやっているんですね。型を堤Dの方で作っておいて、それと似た感じに撮っていくというやりかたなんでしょうか。これで堤Dが演出したものとそうでない者との間に差が見られたりすると面白いんですけどね。いまのところは思いつかないです。

▼2003年5月6日 Ash さん No.43
>>魔女
あの名前のつけかたは明らかに佐伯日菜子を意識してつけていると思いますね。彼女の出演作を見れば、一目瞭然。そして密かに仲間嬢も(w。

>>超能力ネタ
もろやんさんご指摘の通り、超能力ネタが鳴りを潜めた顕在化の一つとして、OPのイントロがあります。あれは、ファンの間では人気があったのですが、2では何故かなくなってイントロなしで突然ドラマがスタートしてしまうようになりました。映画では、その声に応えたものか、復活してました。TRICKの変遷を考える上で、OPのイントロは非常に重要な位置を占めていると捉えてよいと思います。

>>双子のトリックが暴露されるシーン~
TRICKの演出が際立つのは、抜く場面で抜き、シリアスシリアスしている場面ではちゃんとそれを描写するところです。霊P編が出色なのは、奈緒子はじめ、キャラのパーソナリティの根っこの部分をしっかり描写しているところです。いんちきは絶対に許せないと怒りをぶつける奈緒子、シャワーないんですよ奈緒子、上京してくる母、アイスを食いつつ哲この部屋を見る素っ裸の上田、ETCETC。
ミステリかと思わせてホラー、論理と破綻、魔術とトリックの間で揺れ続ける、ある意味最もTRICKらしいエピソードだと思います。

>>堤Dと他の演出家の差
結局、世界観を堤Dが先に作っておいて中を適当にアレンジしてもらい、最後は自分で締めるという感じなんでしょうね。逆に、堤Dが中だけを担当するというパターンがないことを考えると、最初と最後、さらにドラマの基本的な肉付けという部分を厳密に堤Dの演出と考えてもよさそうですが、霊P編は出来が良過ぎますからね。

木更津キャッツアイ、見終わりました。これから評をあげてみます。

▼2003年5月6日  Ash さん No.44
木更津キャッツアイを見ました。
一話だけですが。

出だし且つ縦軸はファイト・クラブ的カット・バック。
横軸は下町ギャング風でパーティー7というかIWGPというかそのようなノリ。但し岸和田愚連隊的破壊力はない。
ドラマらしからぬ激しいザッピングの嵐、サウンドノベルっぽい。
木更津を舞台にしたクドカン流IWGPといえよう。全体としてやや荒削りな堤ドラマの焼き直し的印象。視聴者を突き放した非常に実験的な作りではあるが・・。どちらにせよ非常にTBS金21時的、或いはフジ木22時的なドラマ。

総評:6PTS

キャスト
IWGPリツコ役の森下愛子が相変わらずいい味。ほかは印象なし。
●岡田准一   7PTS メインでもサブでも浮かず沈まず。
●桜井翔    6PTS スマイル的役所だが役者と合っていない。
●岡田義徳   8PTS 変なキャラで存在感がある。
●薬師丸ひろ子 5PTS 仲間由紀恵だったら10PTS。
●阿部サダヲ  6PTS テンションが高いが欠けると痛い。
●山口     4PTS 芸人の時の方が面白い。
●酒井若菜   7PTS 器用。サブにしては悪くない存在感。
●佐藤隆太   7PTS 役に馴染んでいて違和感はない。
●塚本高志   7PTS まずまずだがインパクトがない。
●古田新太   5PTS 誰だったか・・?
●森下愛子   9PTS 一人で怪しい下町を演出している。
●小日向文世  5PTS 月9で良く見る顔だが印象なし。

●金子文紀(演出)6PTS ケイゾク3話、7話の演出家。
第一話としては印象が薄い。

木更津とはやや離れますが、TRICK1と2を比べると、イントロ以外にも違いが見うけられると思います。
例えば、2は1に比べかなりプロットやシノプシスを練りこんで、論理的整合性を出そうと意気込んだ感があり、これは破綻に目を瞑り勢いとアドリブで押しきった1をよしとせず、純粋なミステリ・ドラマとして再構成しようとした印象があります。六つ墓村、サイ・トレイラーの2篇については細かい点までよく練り上げられています。
逆に、御告者、時間の穴では失速していき、妖術使いの森は楽屋落ちというか無残な最後でした。
ケイゾクやIWGPのアクロバティックなカタストロフィとは余りに落差があります。また、映画では小ネタの奇想と論理性は見るべきものがありますが、俯瞰してみればやはりカタストロフィを貫くラインに杜撰さが目立ち、凡作となっていました。これは、奈緒子・上田・矢部といったメインが楽屋落ち以上にキャラを広げられず、引いてはTRICK世界全体の広がりを失ったため収束せざるを得なかったということができるのではないかと思います。上田が教授に昇格した程度で、変化をつけることができなかったですからね。それでも六つ墓では当初上田がTRICK・Qといった小技でキャラに変化を出そうとしていた点があったのですが、それ以降どこへいったのやら、とまあこのあたりドラマではよくあることで、例えばHEROでも松たか子がアーネスト・ホーストを引用に出すほどの格闘マニアキャラを演じるも、以降では格闘シーンでも全くネタ出ず、逆に何のネタ振りもなかった阿部寛に突如格闘シーンが回り立ち回りの末仕方なく吠える、といった不徹底さはよくあることなので驚くには当たらないのですが。
結局、自由に広げることが可能な演出的空間があった1、1に縛られ収束せざるを得なかった2、原点回帰(というか維持)を目指した映画、というように分類できると思います。

しかし、この対談企画、もう一月も続いてるんですね。
いやぁ、真逆こんな長丁場になろうとは思わなかった(w。

▼2003年5月7日 もろやん No.45
佐伯日奈子のプロフィールを確認してきました。『らせん』に『うずまき』。ホラーの女王。なるほど魔女っぽいわけです。それも筋金入りの。というか『らせん』で貞子をやっていたのが佐伯日奈子だったんですね(知らなかった(汗))。なるほど、ジャパネスク・ホラー的なものと相性がいいわけだとものすごく納得中。仲間由紀恵と佐伯日奈子は貞子役をやったことがあるもの同士なんですね。あ、そうすると中谷美紀も経験者ということになるんでしょうか。とすると……堤作品のヒロインは貞子経験者説(笑) これ、どうですか。

OPイントロの挿入は映画で久しぶりに見たという感じでした。そもそもOPイントロの話が、トリックなのか超能力者なのか、という問題を提示してから話が始まるわけですよね。確かに重要なポイントになると思いました。味のある画で、個人的にも楽しんでましたし。

「ミステリかと思わせてホラー、論理と破綻、魔術とトリックの間で揺れ続ける、ある意味最もTRICKらしいエピソードだと思います」
もう何も付け足すことはないと思います。この一文に霊P編の特徴が捉えられているかと。やはり振幅の大きさというのが、堤作品の特徴のような気がしますし、その中でも『TRICK』は好き勝手やっているだけ、それがよく出ていると思いました。

「自由に広げることが可能な演出的空間があった1、1に縛られ収束せざるを得なかった2、原点回帰(というか維持)を目指した映画」
映画は確かに、これでシリーズとしては安定しちゃったのかな、という印象でしたね。テレビシリーズと別のことはやらないという意図はあったと思うのですが、それにしても全然変わらないのでは……(汗) トリック1の段階では、超能力―トリックの間の揺れがひとつの軸になっていたので、一定の統一感みたいなものがあったように思うのですが、2になるとそれぞれのエピソードが独立していて、なおかつ出来の幅もはげしいので、全体としては当たりはずれが大きいドラマになってましたね。3も制作したいみたいですが、はてさて、どうなることやら。古畑任三郎みたいに、新しいキャラを入れていくしかないんでしょうか。

Ash さんが木更津を鑑賞している間に、僕はIWGPを通して見ていました。改めて堤D演出、冴えています。ちょっと思ったのですが、彼は登場人物ごとに演出を露骨に変えていますよね。タカシの描かれ型は徹底的にマンガ的で(自分でもよくマンガネタを言いまくってますが)、マコトや他のキャラはわりとふつうに演出されることがあると。IWGPでは、マンガ的に描かれるキャラクタと比較的ふつうに描かれるキャラクタとが同居しているような、そんな印象を受けました。生々しい暴力シーンもある一方で、どうにもコメディとしか思えないような暴力(?)シーンもあったり。「混在」というのが今回見て感じたことですね。

それとの関係でいくと、『木更津キャッツアイ』は、たぶん登場人物全員がマンガ的に描かれていると思います。なんというか、あの世界では「なんでもあり」なんですね。「それって無理だから」とつっこみを入れたくなってしまうような出来事ががんがん起こるんですが、木更津ではそれが普通、という。『IWGP』がベースにあることは間違いないと思うのですが、クドカンは同じような題材を使いつつ、マンガ的なものを冗談みたいに肥大化させることで、それとはまた別のことをやろうとしているのかなと。

第1話は確かにあまり出来がよくないです。僕としても6点くらいが妥当かなと。キャラがあれだけ濃いのに話を詰め込みすぎたせいか、それを説明し切れていないという問題が。キャラが立っているのはまさに森下愛子だけ(汗) きっと視聴率が悪かったのは第一回のせいですよ(ホントか)でもまあ、2話3話と続けて見ていくと、徐々にキャラクタ設定と細かい仕掛けがわかってくるようになっていると思います。小日向史世も味が出てきます。ものまね教室が、ものまね教室がっ。

対談企画がひと月以上……いや、ほんとにこんなに長丁場になるとは僕も思ってませんでした(汗) ええと、どうしましょうか。『TRICK』の話題もまとまった感がありますし、この辺で時間を取るのもひとつの手かなと思っています。ちょっとした休憩というより、第一部・完みたいな形にしておいて、また話のネタができたら突発的にまたやるという形ですね。

▼2003年5月7日 Ash さん No.46
中谷美紀は、貞子を演じてましたっけ?高野舞役だったような?

木更津は、1週間レンタルなのでゆっくり見れそうです。まあちょっと一話だけではなんともいえないですね。

IWGPは非常に完成度が高いですね。まとまりだけでいうとTRICK以上、TRICKよりもミステリー度は高いと思います。 混在というキーワードですが、まあ確かに現象的にはそうなんですが、以前の記事であげたシリアスとヒューモラスの緩急と言い換えたいですね。これは現在仲間由紀恵主演の「顔」を見ればよく分かります。同じ役者を使っていても、顔の場合は全く気を抜かずずっとシリアスしているので、逆にシリアスなシーンの描写を強調したくてもできない。これが抜く場面を一つ入れていると、ぐっと強調されてくるという演出を堤監督は多用しているんだと思います。そういうわけで「顔」は悪くはないのですが、このへんが普通の演出且つフジTVの限界と言えるでしょう。

TRICKのまとめはもろやんさんのもの以外に、付け足すことはないです。

対談はネタがないと中々続かないですね。いいところでお開きにして頂いて構いませんよ。

佐伯日奈子ですが、綴りは
佐伯日菜子だったと思います。
でも佐伯日奈子でも結構検索にヒットしてみたり。
5-7HTの久保竜と夕食を囲むとは芸能人は羨ましい。
囲むこと自体よりそれを日記のネタに書けるのがなんとも羨ましいですな。

佐伯日菜子ネタで引っ張ると、らせん、うずまきでなく、わたしが言っていたのは別の作品でした。

▼2003年5月9日 もろやん No.47
中谷美紀は高野舞役です。でも確か話のなかでは、舞から生まれてきた貞子をはじめは中谷がやっていたなあ、と。完全に貞子役というわけではないですけど、微妙に経験者、ということで(汗)

IWGPのまとまりは確かにトリックより上だと思います。混在と緩急というのは、同じことをいいかたを変えただけなのかもしれません。作品の流れに沿っていけば緩急といえますし、作品全体を眺めると混在といえるという。どちらにしろ、この辺の使い分けがうまいのが堤Dなんでしょうね。「顔」は仲間ファンとしてはとても気になるドラマなのですが、いかんせん横山秀夫原作ということで苦手意識が……。ちょっと見てみたんですが、堤D演出を観てしまうと、どうも一本調子なのはだめですね(汗)

佐伯日菜子。「菜」でした「菜」(汗) でもひっかるんですよ検索。公式サイトも引っかかりましたから。それで「あ、これでいいんだ」と思ってしまったという話です。だまされたっ<責任転嫁するな そしてAsh さんがいっていた佐伯出演作品は『エコエコアザラク』か『蛇女』かと思うんですが、どっちなんでしょうか。前者の可能性が高いかなとは思うんですけど。

対談第一部、この辺で完ということにしましょう。後期クイーン的問題とトリックの関係を話し合っていくうえで、僕としてはとても多くの示唆を受けることができて大変よかったです。この対談がなかったら、堤Dの演出についてこんなに考えることはなかったと思いますし、『チャイニーズ・ディナー』も観なかったと思います。話し合っていくうちに、自分のなかの問題点もすっきりしていったし、なによりAsh さんからいい刺激を受けました。興味の幅も広がって、これまで見えてこなかったものも見えるようになったかなと。それもこれもAsh さんのおかげですね。本当にありがとうございました。またいつでも対談は始められるわけですし、IWGPとか木更津などなど、気になるものがあったら話をしましょう。

▼2003年5月9日 Ash さん No.48
こんばんわ。
出演作品は前者だと思われます。

対談終了、了解です。
こちらこそ楽しませて頂きました。有難うございます。
また、ネタがあれば是非やりたいですね。
では!